木村康人の
Millennium地球一周旅行記

= ヨーロッパ編・2 (2000年7月13日〜7月23日) =



At Heidelberg Castle


FRANKFURT AM MAIN, Germany 7月13日木曜日曇り一時雨 「塔狂・挫折」

  再び独入国を果たした僕。ヴァイマールの音楽院関係者には夜8時頃に到着すると伝えてあった。というわけで・・・
  「今乗れるドレスデン行きのICE(InterCityExpress)特急じゃなくって、夕方のライプツィヒ行きで行こ。」
  そんなとっさの判断で、結局荷物を預けて3時間程度フランクフルト市内を見て回ることにした。ゲーテの生まれ故郷であるフランクフルト・アム・マインには当然ゲーテの像が誇らしげに立っている。そして同じ公園内にはシラーの銅像も。この二人、ゲーテ街道の中心・ヴァイマールに至るときには二人一組のモニュメントとしてシンボライズされるのだ。2回目のドイツはゲーテ街道を巡る旅程となりそうな予感。ぶらぶらしながらアルテ・オーパーを見た後、僕は足繁く地下鉄&バスで高層建築世界第25位・331mの高さを誇るテレビ塔へと行った。塔マニアとして当然の行為。しかしこれが裏目に。なんとこの塔はハンブルクやベルリン、ミュンヘンのものと違い、ドイツ・テレコムのプライベート・オフィスになっていて関係者以外は上に上れないという! どぉ〜りでどの資料にも紹介されていない訳だ。それを頑張ってここまで来たというのに、とんだ無駄足を踏んでしまった。
  ・・・まあ無駄足はムダと思わなければ無駄足にはならないので、今回もまた良い経験をしたと自分に言い聞かせる。仕方がないのでその足で観光客溢れるレーマー広場へ。こうなったら大聖堂に登ろう!大聖堂の尖塔には332段の階段で上まで登れると某旅行書にも書いてある。足にはかねてから自信のある自分、気合を入れていざ出陣・・・が!!!なんと現在尖塔の補修工事真っ最中で2002年か3年まで階段は封鎖されているという!!なんと、
またここでもやられてしまったこれじゃ何のためにフランクフルトまで来たのか分からんじゃないか(いや、そんな目的でこの街を訪れる人は極めて稀だろうけどね。)!塔マニアこれまでか・・・。ふと見上げた空も、そんな僕の気持ちを察するかの如く小粒の雨を落とし始めた。シドニー然り、ハンブルク然り。二度あることは三度ある、か。つまりこれからの音楽の旅に専念しろということだろう。もちろんそのつもりなのだけど、今回フランクフルトを少しでも見られたのは良い思い出になった。
  さぁ、ゲーテの後を追おう。 



WEIMAR, Germany 7月14日金曜日晴れ 「1999年ヨーロッパ文化都市・ヴァイマール」

  ヴァイマールは、ゲーテ生誕250周年の昨年にヨーロッパ文化都市に選ばれた。街はゲーテ一色だが、それ以外にも文豪シラー、画家ではクラーナハ、音楽家ではバッハ、リストといった数々の巨匠たちが活躍の舞台としてきたのがこのヴァイマール。いつか社会の授業で習った1919年の「ワイマール憲法」を思い出される方も多かろう。うーむ、確かに文化の香りがプンプン音をたてて匂いそうな街だ。僕はここのフランツ・リスト音楽院で行われるクラウス・ペーター・フロール教授の指揮マスタークラスに参加することになっているのである。
  午前10時から早速講習がスタートした。講習のスケジュール、オーディションの内容等、全てはこの日に発表されるということだったからドキドキもんだった。指揮者は全員で23人はいただろうか。ざっと見ただけでも実に多彩な顔ぶれで、ドイツの他イギリス、イタリア、オランダ、オーストリア、スイス、ハンガリー、ロシア、ポーランド、中国、韓国等からの参加者もいる。女性も3人来ていた。僕の自己紹介は最初から2番目だった。いきなりだし何も面白いことは考えていなかったけど、とりあえずドイツ語1分間スピーチをTRY。一応伝わったみたいなのでホッと胸を撫で下ろす自分。そんな僕と現在スウェーデンのエーテボリで合唱指揮をしているポーランド人マルティン以外は皆ドイツ語が堪能っぽい(ちなみにマルティンは僕のルームメイトである)。一応我々には通訳がついてるのだが、やはり言葉の壁を感じざるを得ない。そんな中フロール教授の挨拶も行われた。今日から4日間全員2台のピアノを指揮する講習を受け、その過程でオーケストラとの練習及び最終日のコンサートを振るメンバーを選抜する、ということだった。講習は毎日朝から晩まで行われるという。なんと!僕はコンサートのことなんて何も知らなかったのでカナダ出発を控える最終日にフランクフルトのホテルを取ってしまっていたし(しかもクーポン購入済み)、あとオフの時間も多少はあるだろうと思ってジャーマンレールパスを2日分余分に購入していたのだ。何たる失態。お金を無駄にしたくはないが、音楽には替えられない。いやチョット待て。それ以前にコンサートなんか振ることになったらその翌朝の飛行機に間に合わないんじゃないか?! ま、それらのこと受かってから考えるとして、これまでの旅行モードから気持ちを切り替え精一杯努力することを誓います。



WEIMAR, Germany 7月15日土曜日晴れ時々曇り 「奇遇 What a Fancy Meeting!!」

  今日の午後は、受講生全員で現在West-Eastern Divan Orchestraという中近東のオケと共に訪れているダニエル・バレンボイムの公開リハーサルを訪れた(プログラムは彼の弾き振りでベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番あと彼の十八番・ブラームスの1番)。そしてその会場で、僕はなんとアメリカでの友人ジョセフに会ったのだった(!)。彼は今年カーティス音楽院指揮科を卒業し秋からジュリアードの大学院指揮科に入学するのだが、まさかこんなところで、しかもすぐ隣りの席に彼が座ってるなんて!! こんなこと信じられる?? 両親がエジプト人の彼、今回オブザーバーとしてこのオケに同行しているとのこと。それにしても奇遇だ。ホントにこの世の中狭いッスね。
  もう一つ「奇」なる巡り合わせを。夜の講習はヴァイマール南部のベルヴェデーレ宮殿(ヴィーンのと同名だね)に隣接する音楽高校で行われたのだが、そこで野生の孔雀なんてのを発見してしまった。さすがはドイツの宮殿、とんでもない生き物を放し飼いにしている(笑)。
  帰りは、終バスには間に合う時間だったのだが教授と生徒4人でホテルまで歩いた。N響やアメリカのオケのお話など聞かせてもらいながら、てくてくと20分か30分。それにしても緑に溢れていてすがすがしい所だ。僕はドイツこそ世界一の優良国だと思う。自然、文化、経済、スポーツ、社会保障、環境保護政策etc.、どれをとっても素晴らしいし極めてバランスの取れている国だと考えるからだ。ただ、敢えて言えば2度の世界大戦を引き起こしたことと、「海らしい」海が無いのが減点ポイントかな。残り1週間余りのドイツ滞在、有意義なものにしたいとこの日改めて思う僕であった。



WEIMAR, Germany 7月16日日曜日曇り 「なんてったってヒルトン!」

  講習は朝9時から夜9時まで。短いものから長めのものまで休憩は途中何度かあるというものの、予想以上にハードなスケジュール。全くもって教授の気が知れん。一番大変なのは指揮伴のピアニスト達だろうけど、とにかく実にエネルギッシュなマエストロだ。。ちなみに3日目終わっての感想(これは第一印象から変わっていないのだが)・・・他の参加者にちょっとガッカリ(はっきり書いてしまうが)、特にドイツ人に。もっともっと上手い、というか見ていてかなり勉強になりそうな輩がたくさんいるだろうと期待してきたのにな。ドイツ人だろうが東洋系だろうが、ベートーヴェンの5番が難しいのは共通らしい。恐らくクラシック音楽というは今日もうそれ自体が一つの言語、そして時代と共に一層グローバルになっていくのだろう。僕自身、アジア人というハンディをほとんど感じなくなる時代がもう来ていると確信した。コンサートを振れるのが23人中3人なんだか5人なんだか知らないが、僕もいい線いけるのでは、という予感はしている。
  夜はヴィーン国立アカデミーで学んでいるブダペスト出身のペーターに連れられて町のちょっとしたバーに行った。彼のオススメはそこのモヒート(Mojito)。ビール派の僕が何故にドイツでメキシカン・カクテルかと思いながらも、意外や意外これがナカナカいけたのであった。ちなみにペーターはショルティ財団から奨学金を受けてヴィーンで勉強しているのだが、近い将来ヴィーン行きも視野に入れて考えている僕にとって現場の色々な話を聞けたのは良かった。
  ところで、今回の宿泊先は間違いなく今回の旅の中で最もゴージャスだろう。なんてったってヒルトンだから。利用する暇はとてもじゃなく無いが、プール、サウナはもちろん、美容室やボーリング場まで完備している。これがかつての東独だとは到底思えないね。ここがマレーシアのホテルよりも格安で泊まれるんだから、音大生やってて初めて報われたって感じ(笑)。若い音楽家のために政府が費用を援助してくれているのだそうだが、宿泊費以外にルームサービスやバーで飲んでも割引というのは出来過ぎじゃないかい?! ま、そんなこと僕らはもちろんお構いなしだが。ちなみにフロール教授もバレンボイムもここに滞在している。ということは、今いったい何人の指揮者がここヴァイマール・ヒルトンに泊まっているのだろう!至って愉快な話である。



WEIMAR, Germany 7月17日月曜日曇り時々晴れ 「名前が無い・・・?!」

  今日の夜、ついにオーケストラを振ることになる5名の名が発表された。全員がヴァイマールもしくはドイツのその他の都市で活動している指揮者で、僕の名前もペーターも名もそこには無かった・・・。結果は結果、僕は悔しいけど真摯に受け止めようと思う。ただし明日、オーケストラを実際に指揮する敗者復活オーディションが行われるという。とりあえずドイツのプロ・オケが振れる貴重な機会。僕は「ベストを尽くす」というより「少しでも楽しみたい」、そんな風に明日が楽しみに思う。そうして僕はペーターを飲みに誘おうと思って辺りを見回した。が、どうしたことか彼の姿はすでにその場から消えていた。
  僕はホテルに戻って部屋のベッドで一回だけ寝転がってから、ペーターに借りたリストのCDを返すため隣りの310号室を訪ねた。机の上には勉強中と思われるスコアが散乱していた。
  彼は言い放った。
  「もうどうだっていいさ。仮に俺が明日選ばれようと、俺が教授のドラフト1位じゃないのには違いないんだから。
  彼の負けん気の強さとプライドが伝わってきた。彼の明日に賭ける心境を物語る机の上のスコアとタクト。「楽しみたい」ってだけじゃ、彼と一緒にオーディション受ける資格ないんじゃないのか?僕は自問自答した。
  「二人で生き残ろうぜー!
  僕は彼との立ち話をこの一言で締め、勉強のため312号室へと戻った。



JENA, Germany 7月18日火曜日曇り時々晴れ 「最後の晩酌」

  今日の舞台は音楽院ではなく、イエナ・フィルハーモニー本拠地のイエナ市民劇場。自分の曲も指揮する順番も、その時まで何も分からないというヒヤヒヤもんのオーディションが行われた。僕はいきなり2番目に名前を呼ばれた。そして曲はベートーヴェンの交響曲第7番第1楽章。それにしてもまた大曲に当たってしまった・・・。正直言うと僕はこれを振ることができたらいいなー、とちょっとだけ思っていたんでかなり気合が入ったものの、同時にステージ上で誰よりも若い(少なくともそう見えるであろう)アジア系の僕が本場ドイツのプロ・オケでベートーヴェンを振るという事実の重みを思うと、やはり多少の緊張は避けられなかった。
  「自分を偽らず、楽しみながら精一杯やろう。」
  これは昨夜考えた末の僕の今日のポリシー。心の中で今一度その弁を繰り返してから、僕はコンサートマスターと握手を交わし指揮台に立つ。
  「グーテンモルゲン。ベートーヴェンジーベン、アンファング、ビッテ!」
  冒頭のフォルテのコードのため両腕を振り下ろす。零コンマ数秒遅れてオーケストラがバッチリそれに応える。
  「これが『ドイツの先振り』っちゅうもんか♪
  僕は少々感動しながらその新鮮な喜びを噛み締めつつ序奏を振り続けた。しかし、しばらくして一旦フロール教授に制止される。前回2台のピアノを指揮したときより若干テンポが遅いというのが理由だった。確かに僕はこれまでの講習でベートーヴェンのシンフォニーをメトロノーム指定と全く狂い無く振って、教授をいい意味でも悪い意味でも驚かせていたのである。ちょっとボロを出してしまったかな・・・仕切り直しでもう一回。今度はより流麗な音楽を作れた気がした。また、オケがほんの少し遅れる「先振り」のタイミングを色々実験して楽しんでいるうちに、次第に当初の緊張も解けていった。そしてアレグロの提示部の途中で時間切れとなった。
  他の指揮者たちだが、オケを前にするとそれなりに様になって見えるのは何故だろう。結果として全員の実力は均衡しているように感じた。皆が指揮し終わって休憩後、僕は第二次試験に進みモーツァルトの40番の第一楽章を振ることになった。僕の「快速」アレグロ・アッサイの解釈に多少戸惑っていた奏者も最初はいたが、内声を思う存分ピックアップして僕らしい指揮ができたような気がした。他の何名かも振り終わりオーディション終了。そうして待つこと・・・何分か忘れた。結果発表。
   残念ながらペーターは二次試験を指揮することはできなかったのだが、最終結果は僕もペーターと同じく「惜敗」だった。話では、オケが気に入ったが教授が認めなかった指揮者が匿名だが一人いるとのこと。僕はそれが自分であると今も信じて疑っていない頑固者である(笑)。
  夜は「ハングリー・ハンガリアン」ペーター、ローマ人アレッサンドロとオランダから来たヤンとマルセルのいわゆる脱落メンバー(!)でヴァイマールの下町に飲みに出掛けた。結局ペーターご推奨「モヒートの美味しい」例のバーに落ち着き、男5人で次々にジャーマンビアーを飲み干す。僕は今日一日「自分を偽らず楽しんで精一杯」やったと思うので、何の後悔も残っていない。しかし「曲を知りすぎ」という訳の分からない怒られ方をしたのは初めての体験だったな(・・・もちろん多きを学んだにも違いないが)。僕はフロール教授は優れた音楽家だとこの5日間で感じていたが、かなり保守的で典型的なドイツ人指揮者という側面も同時に垣間見ていたのも事実。他の皆から彼への愚痴が出なかったと言えばウソになるが、それ以上に面白い話で盛り上がったので万事OKだ。夜はそうして更に更けていったのだった・・・。


Conductors in Weimar
向かって左からヤスト、ペーター、マルセル、アレッサンドロ、ヤン



JENA, Germany 7月19日水曜日晴れ時々曇り 「新たなる旅出」

  オーディションに合格しなかった連中は今日からはただの見学者となる。それに早くも耐え切れなくなったか、今朝ヤンとマルセルはオートバイで颯爽と母国オランダへ帰っていった。片道約550kmの道程だそうだが、そういえばルームメイトのマルティンもポーランドの実家から8時間位かけて電車で来てたな。これじゃ僕がオスロから飛んできたなんて言えないや。そんな二人を見送った後、僕らはチャーターバス(もちろんベンツ)でイエナ市民劇場へ。僕は他人(上手い下手に限らず)の指揮を見るのは一番の勉強だし大変面白いと思うのだが、残りわずかとなったドイツ滞在をこのまま他人の練習を指をくわえながら見て過ごすだけというのも何だな、と思わないわけがなかった。目の前の舞台上にはなぜ自分が負けたのか、という連中だっているのだから尚更だ。最終的に今日のセッションを見終わってから僕は決意する。
  「旅に出よう。
  考えてみれば、ドイツ再入国してからというものほとんどホテルと学校の往復だけで、ドイツらしい何かを挙げるとしたら毎晩のビールくらいなもんだった。予定を早めてカナダへ飛ぶのはアレなので、せっかくの旧東ドイツを心置きなく満喫しよう! ジャーマンレールパス残り二日分を使い果たすという目的が僕の中に浮上してきた。こうなったら、半ば諦めていたベルリン行きも達成しなければ。こうして僕は再び旅人になる・・・。



WEIMAR, Germany 7月20日木曜日晴れ 「ヴァイマール再発見」

  ハングリー・ハンガリアン・ペーターも、「ガールフレンドが恋しくなった」とかいう理由で今日の午後にブダペストへ帰ることになった。僕は、そんな彼と典型的ローマ人・アレッサンドロ・ダゴスティーニとの3人で一日ヴァイマール観光をした。今まで通り過ぎるだけだったリスト・ハウスやゲーテ・ハウス、バウハウス博物館等を見て回る。それにしても「こんなとこだったのか、シラーが住んでいたの!」などと新鮮な驚きに満たされた一日であった。最初の頃もふと見た建物が大バッハの住居だったりしてビックリさせられたが、ほぼ一週間経った今もこうなのだからやはりヴァイマールという町はスゴイ。ペーターも同じことを実感しつつ去っていったんだろうか。余談だが、アレッサンドロは「バッハの家が見たい」とか言って、急きょペーターと同じ電車で大バッハの生まれ故郷・アイゼナハへと向かっていった。これだからイタリア人は楽しい。僕は彼らを見送った後、残りの時間を使って電車の予約など明日以降の予定を立てることにする。
  僕はペーターが別れ際にくれた指揮棒をいじりながら、これまでの旅を振り返ってみた。3週間足らずの間で、本当に色々な人々に出会い様々な出来事に遭遇してきたものだ。これからは、このタクトを握る度に今回の旅を思い出すことだろう。タクトは、せめて今度ヴィーンで彼と再会する時までありがたく使わせてもらおうと思っている。



BERLIN, Germany 7月21日金曜日曇りのち晴れ 「新首都ベルリン」

  ベルリンのツォー駅まではDBの特急電車で3時間余り。今朝は5時起きでバスに乗りヴァイマール中央駅へ急いだ。ところが! 乗る予定の電車が40分以上遅れるといういきなりのハプニング。これがあるからなぁ、ドイッチ・バーンは。結局ベルリンに到着した頃、時計の針は10時を大きく回っていた。
  ベルリンはデカい! とりあえず今回旅してきた数々の街の中でも1、2を争う大きさを感じる街だった(当然東京や大阪圏とは比べられないが)。まず僕は、リスト音楽院で出会ったベルリンで活動中の指揮者にきいた幾つかの楽譜屋のうちツォー駅に近いものだけを訪ね、買い物を済ませてからUバーンでポツダム広場へと向かった。ポツダム周辺といえばクレーン。とにかくこの辺り都市開発はクアラルンプールや何年か前の神戸を彿とさせるものがある。いや、もしかするとそれ以上かもしれない。壁の崩壊に伴い「西ベルリンの外れ」から「統一ベルリンの中心」へと生まれ変わろうとしているポツダム広場一帯。計り知れないヴァイタリティそして新首都としての将来性をそこに感じた。
  さて、オープンしたてのショッピングモールを通って、僕はベルリンフィルのフランチャイズ、フィルハーモニーへと急いだ。「ヘルベルト・フォン・カラヤン通り1番地」、NYのレナード・バーンスタイン通りやピッツバーグのロリン・マゼール通り以上に存在感漂わせるその住所に、僕は決して消えることはないであろう今は亡きカラヤンの幻影を当然ながら憶えた。
  「これがカラヤン・サーカスかー。」
  フィルハーモニーに隣接する楽器博物館を訪ねた後は、広大なティーアガルテンを散策しながら6月17日通りをブランデンブルク門まで歩く。そう、1989年の壁崩壊まではくぐることの不可能であったブランデンブルク門まで。信号があるのでイマイチとはいうものの、昔は壁だった場所を歩いて超える時はさすがに背筋がゾクゾクした。今日一日で僕は一体何度旧東側と西側を行ったり来たりしただろう。こんな容易いことが可能になってから、まだたった10余年だなんてとても考えられない。一夜のうちに街と人々を分断しそして38年足らずのうちに破壊された壁・・・人間の歴史の全くもってはかない産物だ。
  東ベルリンでは壁博物館の他コーミッシェ・オーパーやシュターツオーパー、コンツェルトハウス等を見て周り、楽譜屋やCD屋も幾つか訪ねた。ちなみにベルリンには大聖堂やジーゲスゾイレ、フランスドームをはじめいくつもの「登れる」場所が存在するので、わたくし高層マニアとしては嬉しい限りである。限られたベルリンでの時間、どうせなら一番高いやつを制覇しようと、僕はベルリン観光の締めくくりとしてテレビ塔へ足を運んだ。ところで、ハンブルクのミヒャエル教会やテレビ塔のときもそうであったが、ドイツでは展望台に長い列ができるのはなぜだろう。KLのペトロナスタワーほどじゃないにしてもシドニーとえらい違いだ。まあ名古屋のセントラルタワーズは今年春のオープン当初2時間待ちという具合だったらしいから、それに比べたら何ともないんだけね。15分か20分待たされた末ようやく展望台へ。そして空もちょうど時を同じくして気持ちよく晴れ渡ってきた。僕が塔好きな理由の一つに、それまで通ってきた道のりを振り返られるというのがある。僕のベルリン市内での軌跡を追いながら街の大きさを再確認。夕日を見ながらバーでビールを飲み干したところで、再び下界へ。旅行ガイドブックお約束の100番バスでウンター・デン・リンデン及びティーアガルテン経由でツォー駅へ戻った。これはこれまでに辿った主要観光地を再び車窓から眺めながら帰途につけるという正に一石二鳥ルート。以前からほしかったベルリンの壁のかけらもお土産に手に入れることができたし、我ながらあっぱれな新首都での一日だった。


Berliner Mauer 1961-1989



HALLE & LEIPZIG, Germany 7月22日土曜日曇り一時雨のち晴れ 「『音楽の父母』を訪ねて」

  この日は同じくヴァイマールのマスタークラスに参加していたピアノの栗栖先生と一緒に、ヘンデル&バッハのゆかりの街を巡る、題して「音楽の父母ツアー」をした。一日で音楽の父と母両方ともに親しんでしまうなんて、とっても奥ゆかしい話でしょ?? そう、ご存知の方も多かろう、今年はJ.S.バッハ没後ちょうど四半千年紀(これって日本語か?)にあたる。しかも音楽家が東ドイツに10日以上いながらライプチヒすら行かないではお話にならない。ってなわけだけどまずはヘンデル生誕の地・ハレ市へ。ヴァイマールからおよそ1時間15分電車に乗り、ハレ中央駅からは変テコな地下道を抜けて歩くこと15分、僕らは町の中心・マルクト広場へと出た。ジョージ・フレデリック・ヘンデル(1685〜1759)の銅像が誇らしげに立っている。僕らはそこから徒歩5分のヘンデル・ハウスに足を運んだ。ここは当時のヘンデルの面影を宿している保存館というよりむしろ彼の生涯や作品についての博物館といったところで、これが結構ボリュームがあり予想以上に時間がかかってしまった。結局ヘンデルの生家だけで僕らはハレを後にし、ライプツィヒ行きの電車に飛び乗った。約30分でライプツィヒ到着。ライプツィヒはいかにも旧東側の大都市といった感じで見どころも豊富。ちなみについ昨日からバッハ2000フェスティバルが始まったところで(これは10日間の日程で開催される)、街中の至る所でバッハのポスターやら垂れ幕やらが目に飛び込んでくる。僕らはまずザクセン広場まで出て大バッハゆかりのトーマス教会へ向かった。我らがヨハン・セバスチャン・バッハ(1685〜1750)は1723年から亡くなるまでここのカントール(オルガン奏者兼合唱指揮者)を務めており、現在入り口には大きなバッハ像がそびえている。僕らは記念撮影を済ましてから教会内へ。
  「ここでマタイ受難曲が生まれたのか・・・。」
  13世紀に建立されたトーマス教会は、当時の威厳を今も変わらず輝かせていた。祭壇横のバッハの墓に黙祷をささげたのち、近くの楽譜屋を訪ねる。ペータースやヘンレ、ベーレンライターといったドイツ楽譜がいやに安い。どれくらい安いかというと、物によっては明らかにベルリンよりお値打ち(概ね2〜3割引きか)で、NYの半値、東京価格の3分の1といった具合{問い3.これら4都市を(一般的に)楽譜の高い順に並べよ}。荷物の兼ね合いで大きな買い物が許されない僕は、ここでちょっぴり後悔する。脇のカフェ・コンツェルトで遅めの昼食を取り、3時から始まるカンタータ演奏のため再び教会内へ。ぎりぎりに入場したので結局2階席で立ち見。それでもそこからはオーケストラや合唱団、指揮者がよく見えたので、結果的には大成功といったところか。
  僕らはオープンして比較的間もないメンデルスゾーン・ハウスも訪ねた。そう、ライプツィヒはバッハのみならずメンデルスゾーン・バルトロディ、リスト、シューマンらが活躍し、またヴァーグナーの生誕地としても知られる音楽都市だ。またライプツィヒの誇るゲヴァントハウス管弦楽団はメンデルスゾーンを始めニキシュ、フルトヴェングラー、ヴァルターらが指揮者を務めてきた世界最古のオーケストラの一つ。いいとこのおぼっちゃまだったせいか、ここの家はとにかくデカい。そのメンデルスゾーン・ハウスでとりわけ目を引かれたものの一つは彼の遺髪だ。これからDNAを搾取して彼のクローンを造れないものだろうか。彼もまた早すぎる死を迎えた超神童の一人。なぜ芸術家の一生というのはこうもはかないのだろう。
  ゲーテもかつて足繁く通い、「ファウスト」にもその名が登場するアウアーバッハスケラーでビールを飲み東ドイツ料理を食べ、僕らはゲヴァントハウスで行われるバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏会へ出かけた。ライプツィヒで日本の古楽器オーケストラを聴くというのもまた一興ではないか。それにしても一日でカンタータ計3つ聴いたのは生まれて初めてだ。ヘンデルで始まりバッハづくめで終わった一日・・・ドイツでの独特な思い出になりそうである。


Statue of J.S.Bach



MANNHEIM & HEIDELBERG, Germany 7月23日日曜日晴れ時々曇り 「再会」

  いよいよ今日、僕はヴァイマールを後にした。とにかく充実した10日間であったと思う。僕は今日再びイェレーナと会うことになっていて、前回彼女がハノーファーまで出てきてくれた(ヨーロッパ編・1、7月9日参照)お返しに、今度は僕がマンハイムを訪れることにしたのだった。と、ここで思わぬハプニング。フランクフルトのホテルに徒歩で向かう途中、今まで幾多もの旅をともにしてきたスーツケースの車輪がぶっ壊れてしまったのだ・・・!!無理もない、ここまでその40kgもの体重を引きずり回されてきた彼(←スーツケース)だもの、ついにお陀仏となってしまうのか・・・いやここでそんなことは許されない、とその場に居合わせたベルボーイと一緒に応急処置を施す。と、これが何とか上手くいき、とりあえず後は無事日本に戻れる事をを祈るだけとなる。チェックインを済ませ、僕は再びフランクフルト中央駅へ急いだ。マンハイムまではICE特急で約40分の道のり。彼女は愛車のボロVW(ごめんなさい、本当にボロい)で駅まで迎えに来てくれていた。そしてマンハイム内をドライブし、彼女の通うマンハイム大学(その昔マンハイムの宮廷だった由緒ある建物=選帝侯宮殿がその校舎)等を訪ねる。そこで、彼女が提案。
  「どうせならハイデルベルクに行きましょ!」
  というわけで、古城街道の名所として名高いハイデルベルクに向かうことになった。推奨速度を若干上回る時速140kmでアウトバーンをかっ飛ばし、わずか15分でハイデルベルク到着。まさかこんな所にまで来れるとは思いも寄らなかった。とんだ棚ボタである。当然だが、僕らは中世の空気をそのまま宿すハイデルベルク城を訪れた。お城から眺めた町の景色は素晴らしかった。これだから高い所はやめられない。それからは旧市街へ降り、車を停めてメインストリートのハウプト・シュトラーセ(中央通り。そのまんま)を往く。マルクトプラッツ(市場広場。ドイツのほとんどの町に存在する地名)・聖霊教会前のイタメシ屋で夕食。マンハイムと比べると全然観光地といった感じの町だったが、短い滞在なりになかなか楽しめた。
  日が暮れてから、僕らはマンハイムに戻って一杯やることにした。そのへんはさすが彼女、地元だけにいい店をたくさん知っている。結局町の中心プランケン・ハイデルベルク通りに程近いシックなバーに落ち着き、僕のドイツ最後の夜に乾杯! 二人で語り合ってるうちにお互いの身の上話になった。実は彼女はドイツ生まれながらユーゴスラヴィア国籍なので、次第に話題はコソボ紛争へ・・・。僕は正直な話、NATOが主張するような極端なジェノサイドは無かったと思っている。一番の犠牲者は何よりユーゴに住む一般市民に違いないだろう。それは彼女も同じ意見であり、当然彼女はNATOの空爆にいい気持ちはしていない。その上彼女の血はセルビアン・・・彼女からユーゴの現状を聞けば聞くほど、僕は何て無意識無頓着な日常を送っているんだろうと痛感した。
  他にも色々と話に花が咲き、いつの間にか日付も変わっていた。僕は見送ってくれた彼女とマンハイムに別れを告げ、フランクフルト行きの終電に乗り込んだ。先日も書いたが、僕の中でドイツは世界一の優良国である。もっともっと知りたいことが体験したいことがこの国にまだたくさん残っている。明日の朝はここでの思い出を重いおもいスーツケースにしっかりと詰め直し、北米へと旅立ちたいと思う。


From Heidelberg Castle



いよいよ舞台は最終大陸、北アメリカへ!




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