キムラの
Ring Cycle Report 2000



リヒャルト・ヴァーグナー作
三日と一晩の序夜のための舞台祝典劇
「ニーベルングの指輪」



1、「ハイアーヤーハイアー・いざ行かんヴァルハラの城へ」
序夜「ラインの黄金」


2、「ホーヨートーホーハイアハー・称えよノートゥング宿望の剣」
第一夜「ヴァルキューレ」


3、「ホーホーハーハイノートゥング・そう我が名はジークフリート」
第二夜「ジークフリート」


4、「ホイホーホーホーハーゲン・さらば神々よ黄金の指輪よ」
第三夜「神々の黄昏」



序文

  いよいよミレニアム・リング・サイクル、Met Ring Festivalの第一回がメトロポリタン歌劇場(以下MET)で始まった。ここで「リング」(「指輪」)について簡単にまとめておこう(注:鈴木光司氏の著書とはなんの関係もありません!)。「ニーベルングの指輪」とは、19世紀のドイツの作曲リヒャルト・ヴァーグナー(1813〜1883)が実に四半世紀以上の月日をかけて創作したオペラ4部作だ。この作品及びヴァーグナーについて詳細を解説すると本当にこのホームページの容量がパンクしてしまうので、興味のある方は木村康人本人にお話を聞いて頂きたくか、各関係書をご参考にされたし。作曲者の特色のいくつかだけ挙げておくと、まず彼ヴァーグナーという人物はとんでもない天才で、スコアが電話帳くらい分厚いボリュームたっぷりのオペラの作曲の他自らオーケストラの指揮やオペラの演出もしたし、全てのオペラの台本製作はおろか、ついには自作上演専用の劇場まで建設してしまったという輩である。これはバイロイト祝祭劇場として今日も存在しており、毎夏彼の作品のための音楽祭が行われており、現在チケットの入手は数年待っても困難という状況である。また以下は彼の主要なオペラ作品の3つのキーワードだ。
1、
「伝説・神話」・・・前述のように、作曲者自身が全ての台本を作成した。物語は、彼が人類共通の普遍的で時代を超越した人間性を含むと考えた中世ヨーロッパの伝説神話を主な素材として構成されている。彼によるドイツ語の歌詞は頭韻を踏むことが多く、作品を通じて言葉の内容と共に音楽による芸術表現を重視した。後期の作品は女性の愛と死による「救済と自己犠牲」という共通のテーマ性を含んでおり、またドイツ芸術を崇敬し民族主義や血族重視の思想の反映と捉えられる要素も数多く存在する(これによりワーグナーの音楽は、後にナチス・ヒトラーに愛され利用されることになっていく・・・)。
2・
「指導動機・無限音楽」・・・それまでのオペラの常であった番号付きのレチタティーボ・アリア形式を破棄し、ライトモティーフ指導動機、音楽の断片それぞれに特定の人物、物体、出来事、感情といった意味合いを持たせたもの。これらが物語進行の中心を成し音楽が繰り広げられていく)を使用した幕を通じて音楽が中断されない「無限音楽」を達成した。
3・
「楽劇・祝祭」・・・ヴァーグナーはこの「指輪」作曲中に書いた「トリスタンとイゾルデ」(1857〜59)以降、自らのオペラを歌劇ならぬ「楽劇」と称するようになる。また彼は彼の楽劇の上演のことを「祝祭」と呼んだ。
  

この「リング」レポートは、第1サイクルの最終公演日(4月22日)まで続けていきます。乞うご期待!
ちなみに各レポートの表題(カッコ内)は、楽劇自体の内容にそれ程深い関係はありません。




Woglinde Wellgunde Flosshilde Alberich Fricka Wotan Fasolt Fafner Froh Donner Loge Mime Erda



1、「ハイアーヤーハイアー・いざ行かんヴァルハラの城へ」

序夜・楽劇「ラインの黄金」
(メトロポリタン歌劇場
{ジェイムズ・レヴァイン指揮、モリス、シュヴァルツ、ホン、ラングリッジ、ヴラシハ、シュヴェンデンetc.};3月25日 午後2時〜4時45分)

  
  いつになくMETの前は多くの人だかりができていた。ダフ屋取り締まりのための警官の数も通常の比ではない。劇場入り口付近には「Need Tickets」の厚紙を持った切符の買えなかったファンで溢れ返っている。これだ、これがMETのリングである。
いよいよやってきたのだ!期待に胸を躍らせながら同じ大学の先輩で現在「音楽の友」誌の海外レポート執筆を担当している太田さんと紳士淑女で賑わうホワイエへ。僕らのサイクルはマチネ(昼公演。これに対して夜の公演はソワレという。一言豆知識でした)なのでさすがに今日テール(燕尾)は見なかったが、タキシード
に金箔コーティングのボータイ&カマーバンドのセットという輩はいた・・・なんだかなーでも見かけはノリマキせんべいだったよ(爆)
  余裕を持って20分前の会場入り。僕らは入念(?)にトイレを済ませ、すたこらと天井桟敷へ階段を上がっていった。そしてホール入り口で手にしたプログラムの表紙には、おー!
ノートゥング!!ジークムントやジークフリートがいずれ手にするであろう伝説の名剣が描かれている。よかったーレヴァインやドミンゴの「どアップ」じゃなくて(METの表紙にそんなのは過去に無いっつーの)。
  ともかく、ハウス内部に入ってまず真っ先に僕の目に飛び込んできたのは
  
「せめーピット!!」
  そう、ハープ6台はスコアの指定通りなので当たり前と言えば当たり前だが、現実に目にするとやはり迫力がある。これらが最後には虹の橋を象徴するアルペジオ(分散和音。ハープによくあるやつね)を奏すのだが、これ
「1台1台違うアルペジオパートを演奏しているのはご存知でしょうか!」(って誰に向かって叫んでんの?)。はっきり言って全然聴こえないけど、色彩的な効果やフィナーレ的ムードは満点だよね。おっと、いきなりラストのシーンを紹介してどうする(!)。とりあえずさっさと席に着き、とりあえず愛聴盤ショルティのリングのブックレットの歌詞対訳を読んで最後の復習。これってなんか時間ギリギリまでノートを最終チェックする試験前の心境だなー。あとプログラムで歌手や指揮者を確認、キャンセルが無いかどうかも念のため調べ、いよいよ満員の会場が何処となく緊張感に包まれる。ウォームアップ中のオケピットから絶え間なく聴こえてくるラッパの「剣」やテューバの「大蛇」のモチーフが一層のムード盛り上げに一役買う。すると、その時!!
  
「えっっ!レヴァイン?!」
  僕と太田さんは一瞬おのれの目を疑った。なんとなくレヴァイン風の人物、平たく言えば
メガネかけてて頭デカくってちょっとデブでちりちりパーマ(これってもしかして死語?)の人がピットの入り口からセコバイ(第二ヴァイオリン。METではセコバイが向かって右手、低弦が左手と言う昔のヨーロッパ式のヴァイオリン対抗配置を採用している)のトップの方向へ歩み寄っていったのだ。すぐに真正面は見えなくなってしまったが、他の客は気付いているんだろうか?でももしそうなら満場から拍手が沸き起こるに違いない。それにまだ会場内の照明は薄明るく灯されている。
  「指揮者って、暗くなってから出てくる人だよなー。」
  こんな
クラシック鑑賞初心者豆知識まで頭に浮かんだが、そんな事興奮ですぐ忘れてもう一回お話のおさらいに没頭。そうこうもしているうちに時計は2時10分をまわった。今日のファッショナブルレート(実際の演奏開始が通常で5分くらい遅くなる事)はちょい長め。まぁそっか。「黄金」は一幕ものということで、会場に遅れようものなら最後、もう演奏を見られないのだから。そういった人のためにMETには平土間席入り口の左手奥の壁面に舞台の映るモニター画面が設置しててあるのだが、今日遅れた人は2時間半これを観るんかなー(そういえば、これ以上に長い一幕もののオペラは他に例を見ないだろう。知ってる人は教えて。)。だって折角いつもより割高の切符(少なくとも僕のチケットは通常公演の2倍)買ったんだから、何か見て帰らなきゃね。まぁそんな遅刻するような人間の事はどうでもよい(ジコチュー)。なんてうちに天上から吊り下げられている12個のシャンデリアがその灯を徐々にくゆらせながらゆっくり上昇を開始した。METの有名な見せ物だ。そうして、先ほどの「レヴァインらしき人影」の謎が解けるに至る。
  
「これも演出なのだ!」
  そう、
「黄金」はまずコントラバス変ホ音のペダル音で始まり、しばらくしてファゴットの変ロ音、そしてホルンのアルペジオが少しずつ加わってくる。最初のベースとバスーンの段階では空虚5度といって調性が決定されない不安定な音楽なのが、次第に和音が満たされていって主和音を構成し、段々と楽器が加わってハープを除く全ての楽器のトゥッティ(全奏)でひたすら主和音のアルペジオを演奏し続ける。そうしているうち幕が上がる。歌が加わる。という風にできているのだが・・・理解の早い読者の皆さんはもうお気付きですね、何を隠そうこの段々と低音から和音が出来上がって音量も増していくというのは原始世界からの天地創造、創世紀を如実に表現しているのだ!さすがワーグナー大先生、やる事が違うッス。だって歌が入るまでの前奏曲が純粋に主和音オンリーで(多少の音階や経過音は入るものの)、しかも135小節だよ(今がんばってスコア数えたの)、135小節!長さにしてなんと4〜5分ってとこ。拡大された冒頭の主和音が曲の巨大性を暗示するってのはライバルのブラームス君が第1交響曲(ちなみに彼だってこれの完成に21年以上費やした)でやってるけど、比べ物にならんでしょ。少なくとも大胆さに関しては。遅筆家のブラ君(訳すなって!)と「多筆家」のヴァーグナー、こんなとこでも張り合ってた?!(ウソ)(注:僕はブラームスも勿論愛してます。)
  前置きがまたまた長くなってしまった。つまりはそれだけ長い前置きがこれから始まる超壮大な音物語を物語っていると言うのが言いたかったワケ(強引)。んで、レヴァインが内緒で登場してきたのは、バイロイトみたく静寂の暗闇の中
から指揮者登場の拍手ナシで楽劇を開始させて、カッコよく世界生成の場面を演出したかったと言うことさ。これが演出のオットー・シェンクによるものかレヴァインのアイデアなのかは知らないが、LDとか見てこなくて良かったーって思ったよ。だって本番で感心させられた方が得だもんね、エッヘン。しかし本当に真っ暗になった。これが日本なら、消防法に基づきヒトが用意ドン!の格好してる非常口のミドリのランプが点灯しててムードぶち壊しってかーんじ(コギャル風に)!#
  あぁ、このペースで書き終わんのかな・・・まだ4部作中最も短い
「黄金」のしかもたかだか前奏曲終わったとこってきたもんだ。頑張って先を急ごう。でも一つだけ簡単に付け加えると、この原始的に構成された主和音のアルペジオが実は4部作全てのライトモチーフの引き金となるのだ!ちなみにこの最初の箇所は「原始状態」の動機、「自然」の動機と「波」の動機で、このように自然や物体など絶対的なものが関わるライトモチーフは基本的に3音の分散に基づく全音階的な動機に基づく。あと例えば属七からの解決でスラーを伴ったものはラインの乙女の陽気な叫びを、逆に減七からのそうした動きはアルベリッヒの醜い憎悪の叫び等を表している動機に繋がっていく。また愛や呪い等の感情的、運命的なものを表現するのには半音階的なライトモチーフが用いられるといった暗黙の了解もある。この点だけでも抑えておけば、万人にとってヴァーグナー鑑賞がカナリ楽なものになるのではなかろうか。この「黄金」には、まだそれほど深刻な要素が登場しないの全音階的な動機が多用されていると言うものの、全4話中おおざっぱに数えても100以上に上るというライトモチーフの実に3分の1以上がこの「黄金」で早速登場するので割と応用が利くに違いない。ライトモチーフの話になったついでにまとめておくと、このように全作の都合上多少説明的な物語進行はこの「黄金」の欠点かもしれないが、逆に、多くの動機に焦点が当てられるということで他の3作に比べ展開が速く上演時間が短めで済むというのはこの楽劇の大きなメリットの一つと言ってもいいかも知れない。これで皆さんも少しはヴァグネリアンに近づいたかな?
  そろそろ本当に次行こう。まず幕が上がってまたまたビックリした。そのセットの豪華な事!
紅白の小林幸子の衣装ばりといっては過言?ラインの川底という舞台設定なのだが、あたかも本当に豊富な水をたたえた巨大な水槽がそこに存在するかのようなリアルさだった。しかも河水の流れやうねり、光の反射みたいなものまでスクリーンや照明の技で巧みに再現していた。ちなみに僕はこの序夜「ラインの黄金及び「ヴァルキューレ」」を去年ウィーン国立歌劇場でも観ているのだが、なんか今回はMETということで、なにか演出上の「派手さ」を期待していたのであった(もちろん演奏もいい事を期待してるけど)が、この第一場の水の演出だけでもそんな僕の期待に充分答えてくれるものであった。どこぞやの、3人のラインの乙女達が空飛ぶダンボのような乗り物に乗っかってくるくる廻ってたり、ヘンゼルとグレーテルのお菓子の城みたいなヴァルハラ城じゃなくって良かったー(注;決してウィーンやその他のオペラ座がチャチいと言っているのではない。それはそれで雰囲気があったし。ウィーンのは上演ランクによると「B公演」だったしね、仕方ない。)
  演出に関しては、これは太田さんとも話してたけど、一言
「スターウォーズだね」って事で解説OK。巨人の二人なんて、まじダースベイダーのオカルト版だったよ。あと、第一場と第二場、四場の地上(原作では本当はそれぞれ昼と夕方という設定の違いがあるらしいのだが)、第三場の地下(これもそのままスターウォーズで使えそう)とで、岩肌一つにしたって各場の特徴ある雰囲気をかもし出させる事に成功していたしね。最後の虹の橋だって、下手すりゃ本当の虹より綺麗だったかもしれない。まあ虹とか霧とかの天候を映し出していたスクリーンに人物の影が映ってしまったりしたのはもったいなかったが、それも実際に霧に人が映る「ドッペルゲンガー現象」と考えれば納得いくっしょ。あっ、でも欲を言えばもう少し大蛇が大きくて派手だったらな〜(口から花火にはビックリした。これが本当の「蛇足」では)。あと第四場のエルダの登場の仕方はちょっとありがちで物足りなかったかな(どう物足りないのか気になる人は発売中のLDかビデオを見よう!)。これに関してはウィーンのシュターツオーパーの方が面白かったかも。
  その他の感想。とりあえずハープ6台金管いっぱい=ピットの狭さ、で一番の被害を被ってたのはヴィオラ・セクションかな。だって
打楽器セクションのすぐ手前しかも横にホルンやワーグナーチューバの大群ときたものだ。彼らが太鼓のウルサイ場所で耳をふさぐようにしていたのを何度見かけたことか。特に、
1・地底のニーベルハイムの鍛治のハンマーの音、
2・悪役アルベリッヒが指輪の魔力を使う時の打楽器の強奏の部分、そして
3巨人族の兄貴ファゾルトが弟ファフナーに殺される場面
においては可哀想なものがあった。そして打楽器がやかましくってもヴィオラがそれなりに活躍する場所(ヴァーグナーって結構ヴィオラが目立つ。嬉しいね。)では、奏者は弾くのをやめて耳栓するか、もう
思い切ってヴィオラ「以上」の音量を出すという二つの選択肢があったように見受けられる。お陰でヴィオラは結構鳴ってて良かったよ、ウン。
  歌についても簡潔な感想を言うと、女性陣の歌唱力には多少不満が残った。つまりフリッカのハンナ・シュバルツは音量的には充分だったものの音程にかなり不安が、フライアのヘイ・キョン・ホンにしても音量、音質とも期待通りとは言えなかった。3人のラインの乙女達も、響きが薄くハモリ方も鈍いためにワーグナー的質感には程遠いものだった。健闘だったのはローゲを歌ったフィリップ・ラングリッジ、あと小人アルベリッヒのエッケハルト・ヴラシハで、演技力、歌唱力とともに光っていた。ヴォータンのジェイムス・モリスには、今ひとつのダイナミックさを求めたいところ。指揮のレヴァインに関してはいつも通り安定感に優れるオケのリードで、長時間の連続演奏の中でも決して歩調の乱れを感じさせるところは無かった。第二場の巨人登場時かなり遅めに(一応楽譜通り)取ったテンポも、しつこさやデフォルメ感は皆無でドラマ性を十分発揮し得た解釈であったと言えよう。一貫性のあるティンパニの固い音質は、常に巨人の足音のイメージを耳の間近に感じさせる、実に簡潔かつ有効な表現であった。ヴィオラには迷惑だったかも知れないが(笑)。
  そろそろタイプ打ち過ぎで腱鞘炎やばそう(笑)。最後に長年の思う疑問を一つ。
何故アルベリッヒは、ヴォータンとローゲに捕らえられた時指輪の魔力を発揮して何とか逃げ出す術を見つけられなかったのだろうか。ヴォータンはもとよりローゲも神のはしくれであるので、そのようなこしゃくな手段は効力が無いと見切ったという事なのか。だが少なくともニーベルング(小人)族の者達に地上へ金を運ばせた際、小人全員でヴォータンらを総攻撃とはいかなかったのか?!少なくともその場は逃れ次の計画を練るくらいの時間は作れた事だろう。と言う事は指輪の力を完全に使いこなすには時間を要すると言う事なのだろうか。理由は色々考えられるものの、後は読者諸君の解釈にお任せしよう。何か面白い考えがあったらメールか掲示板でお寄せください。一番面白かったアイデア提供者には筆者から素敵なプレゼントがあるかも(「ニーベルングの指輪」の単行本とか、かな?!)。
  
「ラインの黄金」は、虹の橋を渡り新築のヴァルハラ城へ神々が入場するという場面で幕を閉じる。この際奏でられるハープの虹の橋としての効果については既に説明したとおりだが、終結部の変ニ長調という調は最終作第三夜「神々の黄昏」の終結、つまり全編の終結と同じ調であり、原始状態から最終的には神が没落するという事で変ホから変ニへ全音下がるという「終焉」の暗示があるに違いない(現にラインの乙女達の黄金に対する嘆きやローゲの独白がそれを示唆している!)。そしてそれは第一夜「ヴァルキューレ」の嵐のニ短調への導音的要素も含んでいるのだろう・・・。
  それではまた来週!


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Woglinde Wellgunde Flosshilde Alberich Fricka Wotan Fasolt Fafner Froh Donner Loge Mime Erda

Siegmund  Sieglinde  Hunding  Wotan  Brunnhilde  Fricka


2、「ホーヨートーホーハイアハー・称えよノートゥング宿望の剣」

第一夜「ヴァルキューレ」

(メトロポリタン歌劇場{ジェイムズ・レヴァイン指揮、ドミンゴ、ヴォイト、ハーフヴァーソン、モリス、イーグレン、シュヴァルツ
etc.};4月1日 午後12時30分〜5時35分)

  通常とは異なる金の縁取り入りチケットの半券を大事に胸ポケットにしまい、METタイトルをON(これはMETが特許を持つ字幕システムで、立ち見も含め全ての座席に付いている字幕装置のこと。これは使用してもしなくても自由で、逆に他人の字幕が目障りにならないように角度的に自分の画面しか見えないような工夫も施されている)!ついにヴァルキューレの日がやってきた。指輪四部作の中で最も演奏頻度の高い楽劇である。ちなみにこの作品の特徴として、4部作中唯一黄金の指輪が舞台上に登場しない事、また唯一最終幕がオーケストラの最弱奏で閉じられる事等が挙げられる。オケピットからは映画「地獄の黙示録」で使用され有名になった「ヴァルキューレの騎行」のモティーフがけたたましく聴こえてくる。今回のMETのヴァルキューレの目玉は、なんと言ってもジークムントを歌う、3大テノールの一人プラシド・ドミンゴだ。そのドミンゴ、見事な歌唱力と迫真の演技力で、観る者を飽きさせない大変良い舞台であったと思う。特に第1幕のクライマックスでジークムントが「ヴェルズングの血よ、栄えよ!」という場面、ドミンゴはここぞとばかりハウス全体が轟かんほどの大声量を披露してくれた。パートナー、ジークリンデを歌ったヴォイトの出来も素晴らしかったし、キャストに恵まれた今回の上演であったと思う。フリッカを歌ったシュヴァルツも今回、歌唱・演技共に「黄金」以上の良い出来であった。
  
今回の演出も実にRPGライクで良い。ちょっとした岩石も本当に贅沢にできている。圧巻だ。全体を通して多少舞台が暗すぎるという印象も受けたが、その分エンディングの炎のシーンなど感動的であった。ドライアイスをふんだんに使用、炎が岩山(この岩山がまたリアルでスゴイのだが)全体を包み込むという設定をものの見事に再現していた。個人的にはMETという事でもう少し派手な炎を期待していたが、それもまたよし。舞台前面に張られた透明のスクリーンがピットや客席に気体が流れ込むのを防いでいたのだが、そのため一方で舞台上が正しくテレビのブラウン管と化したような、そんな不思議な感覚すら覚えた。
  ただ、難点が一つ。ブリュンヒルデのイーグレンが名ヴァーグナー歌手であることに疑いの余地はないが、どうしても筆者の緊迫感を高めてくれない。原因を考えてみると、1つだけあった。
その巨体だ。カーテンコールで指揮のレヴァインと並んでも全く見劣りしない、いやそれどころかむしろ彼を上回るんじゃないかという百貫デブ(死語?)の体格の持ち主、ジェーン・イーグレン。アメリカにこんな俗語がある。「"Tha Opera's never over till the fat lady sings"(太った女性が歌うまでオペラは終わらない)。」事はまだ終わっていない、という状況で使われる言葉なのだが、これはそのまま直訳してもこの楽劇に成り立つ気がする。ブリュンヒルデの愛の歌なしにヴァルキューレ、いや「ニーベルングの指輪」は語れない。すなわちブリュンヒルデは「指輪」を語る上で最も重要な登場人物の一人で、ただえさえ困難なヴァーグナーの中でも類まれな歌唱力を要求される役柄だ。このイーグレンはそういう面では素晴らしいヴァーグナー歌いだ。今月(4月)号のOpera Newsでも表紙にデカデカとその顔を披露している。だが例えば第3幕、一生懸命命からがらヴォータンから逃れてきたはずの彼女が、ちっとも走る気配すら見られないのは演出的に若干問題ではないだろうか。本人の都合上いと仕方ないとしても、とかく不自然な感は否めない。はっきり言って、僕はある程度の声量を持ち合わせてさえいれば、オペラ歌手(特に女性)は痩せているに越した事はないと思う。その方が役柄のレパートリーも増やしやすいだろうに。例えば誰もデブな椿姫など見たくない。だってそんなやつ、絶対に結核なんかで死なない。死ぬとしたら、さしずめ糖尿病といったところが関の山だからだ。これは言い古されてきた話題ではあるが、あえてここで書いておこう。また必要以上のデブというのは、「私は自己管理が出来ていません」と言っているのと同じではないか。オペラ界ではデブが普通のようにまかり通っているが、これはやはり仕方がないことなのだろうか・・・。
  誤解を招くといけないので改めて書いておくと、
イーグレンは素晴らしいブリュンヒルデ歌手である。疑いの余地はない。目をつぶって静かにその美声に耳を傾けたい、そう思う所存だ。なんかお話がそれてしまった。まあよい。他に書くこと一杯あったはずなのに、忘れた。とにかくヴァルキューレは音楽が良い。「ヴァルキューレの騎行」しか知らない諸君も、是非この楽劇を彩る素晴らしい音楽の数々にいつか耳を傾けて欲しいと思う。長いには長いが、本当に時間が経つのを忘れさせてくれる。 ようやく第1夜完。第2夜「ジークフリート」は、2週間後の15日、12時半スタートだ。


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Gerhilde Helmwige Waltraute Schwertleite Ortlinde Siegrune Grimgerde Rossweisse

Mime  Siegfried  Wandrer(Wotan)  Alberich  Fafner  Stimme des Waldvogels  Erda Brunnhilde



3、「ホーホーハーハイノートゥング・そう我が名はジークフリート」
第二夜「ジークフリート」

(メトロポリタン歌劇場{ジェイムズ・レヴァイン指揮、アネルセン、イーグレン、クラーク、モリス、ヴラシハ、ハーフヴァーソン、グラント・マーフィー、シュヴェンデン;4月15日 午後12時30分〜5時45分)


  もはや恒例となったブロードウェイ82丁目のCafe82でのブランチを済ませ、僕と太田さんはいつも通り徒歩で祝祭(上演)へと向かった。ここで今回の作品及びその鑑賞法について少しだけ言及しておこう。僕はジークフリートは、4部作中で最も心温まる作品であると思う。それはやはりタイトルロールを担うこのジークフリートという英雄が比較的感情移入の余地がある人物で、彼の周りで起こる人間(?)ドラマも他の作品と比べてかなり人情味に富んでいるように感じるからだ。ヴァーグナー自身も同様、この英雄ジークフリートに対する思い入れは極めて強かったらしい。彼は自らをこのジークフリートに託し、その行方の邪魔をするミーメや大蛇ファーフナーを一部の批評家等彼の芸術上の妨げとなる人間に例えたと言われているし、またこの楽劇の作曲中にスイスのトリープシェンで生まれた男児に「ジークフリート」と名付けていまう程の入れ込みようだ。ヴァーグナーが指輪4部作の中で唯一単独で祝祭(上演)しても相応しい作品と考えたこのジークフリート、ところが皮肉にも4部作の中でも最も上演機会が少ない。理由を考えればいくつか思い当たる節はある。上演時間がオペラ史上でも最も長いオペラの一つ、第三夜「神々の黄昏」よりも歌詞の量が圧倒的に多いというのも一つだ。例えば第1幕第2場いわゆる「さすらい人の場」に於けるミーメとさすらい人の問答など、この楽劇の祝祭(上演)に足を運ぶ者ならば既に知っていて当然の事項ばかりでいささか冗長な感があることは否めない。だが、僕はこれはこれでライトモチーフのおさらいのようなものとして親しむ事が出来ると考える。おなじみの「鍛治の動機」、「巨人の動機」、「ヴァルハラの動機」などを始め多くの基本モチーフが短時間に雨あられと登場してくるので、まさにこれまでの作品の復習が出来てしまうという訳である。それと何と言ってもこの楽劇最大の目玉の一つ、ジークフリートの竜退治のシーンは見逃せない。ここでどのような「お化け」が舞台上に登場するかは演出家により千差万別で、各オペラハウスの一種の見せ物になり得ると言っても過言ではなかろう。またヴァーグナーの管弦楽作品「ジークフリート牧歌」をご存知の方は、そのテーマの一つ一つがオリジナルのこの楽劇でこどのように使われるのか知って帰るだけでも価値があるだろう。「純潔の動機」(「平和の旋律の動機」)、「恋の幸福の動機」(「世界の宝としてのジークフリートの動機」)、「恋の絆の動機」などがたて続きに奏でられるフィナーレは涙ものだ。しかしそれでもこの楽劇は、一般的に最もポピュラーな「ヴァルキューレ」と4部作の壮大なラストを飾る「神々の黄昏」の間に挟まれ、また全作中最も登場する歌手が少ない事などから一見地味な作品のように扱われがちだ。しかし、最終場のジークフリートとブリュンヒルデのデュオや有名な第2幕の「森のささやき」を始め素晴らしい音楽が随所に散りばめられているし、また考えて頂きたい。オペラ史上で最も体力を要求される役柄の一つがこのジークフリートでは無かろうか。主人公とはいえ、一人のキャラクターがほとんど全幕(計約4時間)を通して舞台に出っ放しというのも珍しい。これはとにかくものすごい事だと言わざるを得ない。これらの事項を少しでも頭に留めていてもらえば、この凄まじいボリュームの楽劇を鑑賞する際のささやかな支えになる事であろう。
  さてさて、またしても前置きが長くなってしまった。舞台の感想に参ろう。ジークフリートを歌ったデンマーク人ヘルデンテノール(ヴァーグナーの主役級テノールは、このように「英雄的テノール」として分類される。要するにそれだけ高度な技術を要求されるということ)のスティ・アネルセンだが、さすがに全幕を歌い通すため声をセーブしているのか、期待した程客席まで声が通ってこなかった。結局最終場のブリュンヒルデとのデュオでもこれは変わらず、ここで二人の声量の違いがあからさまに表出されてしまうことに繋がったのは残念だ。また一方で、この作品中最大の見所に於けるブリュンヒルデの歌唱にはいささかデリカシーが欠けていたように思う。
確かに声は馬鹿デカいし本当超人的だが、もう少し外見を補って余りあるというか、アーティキュレーションや表現力の研ぎ済まされた歌唱を聴かせてもらいたかったものだ。出番までずっと舞台上で寝て待ってるんだしね(笑)。しかし更に最悪だったのが鳥の声を歌ったハイディ・グラント・マーフィー。実に音程ちぐはぐで趣味の悪いカラーの声ははっきり言って聴くに堪えなかった。しかしこんな中、大変健闘が光っていたのがミーメのグラハム・クラークである。オーケストラの「鍛治の動機」と共に金槌を打ち鳴らす幾箇所も綺麗に小気味良くハマり、歌唱力も演技力もこの昼ピカイチであった。
  ひとつハプニングを書いておこう。第3幕で大きな役割を果たすヴォータンの化身・さすらい人だが、
颯爽と登場したのはいいがなんとその直後に槍が折れてしまったのだ!!観客全員がこのとんでもない事実に気付いたかどうか定かではないが、いずれにせよこれは今回のリングサイクル一番の珍事となるであろう。すぐさま舞台袖に隠れるようにして槍を接着したヴォータンことさすらい人だが、それも空しくまたポキッといってしまって、必至にそれを隠そうとしながら熱唱するジェイムズ・モリスに、僕は最大の賛辞を送りたい。無論この槍は後にジークフリートによって真っ二つにされるため真ん中で二つに折れるようになっているのが、奇しくも裏目に出てしまった。それにしてもそんな状態で一糸乱れず歌い続けるモリス、さすがに一流である。
  そんな契約の槍はいただけなかったが、その他の小道具はやはりさすがのMET、細かい配慮が嬉しい。例えば指輪。ヴァルキューレを除いて全作に登場する言わば本当のタイトルロールであるこの指輪、ちゃんと指に装着できるものなのだが、客席後方からでもはっきりそれとわかるようにサイズ的に異様に大きいものを採用している。また照明に自然と反射するため常にそこに存在感が感じられたのは僕の気のせいだろうか。もう少し(かなり)大きいものになるが、ファフナー(竜)のお化けは賛否両論といったところだろうか。
竜なのか何なのか良くわからない傑作(?)である。興味のある方はビデオ、LD等で確認されたし。あと凄かったといえば、岩山!もうこれはリアルに尽きる。ジークフリートがブリュンヒルデを求めてローゲの炎を潜り抜けていくシーン、ここでは岩山そのものが上手いこと変化&下降し、前作ヴァルキューレと同じセットになるのだ。これは大した演出だと素人ながら思う。物語上必要不可欠かと問われればそれは疑問だが、いずれにせよ長い間奏の間の一種のイベントとして観客の目を楽しましてくれたのは事実だ。ヴァーグナー本人が目にしたらそれこそお涙頂戴であろう。そうこうしているうちにジークフリートが「恐怖」を覚えてブリュンヒルデを眠りから覚まし、愛の二重唱となる。ブリュンヒルデ・・・やはりデカイ。デカ過ぎる。この祝祭(上演)の直後行われたタワーレコード・リンカーンセンター店でのジェーン・イーグレンのサイン会。僕はサイン欲しさではなく不純にも巨体見たさで会場を覗いてみたが、初めて目の当たりにするイーグレン、近くで見たら本当大きかったよ。性格は明るくて優しそうな人だったけどね。


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Mime  Siegfried  Wandrer(Wotan)  Alberich  Fafner  Stimme des Waldvogels  Erda Brunnhilde

Siegfried Brunhilde Gunther Hagen Gutrune WaltrauteAlberich Woglinde Wellgunde Flosshilde Manchen



4、「ホイホーホーホーハーゲン・さらば神々よ黄金の指輪よ」
第三夜「神々の黄昏」

(メトロポリタン歌劇場{
ジェイムズ・レヴァイン指揮、アネルセン、イーグレン、ヘルド、ハーフヴァーソン、ラドヴァノフスキー、パルマー、ガイヤー、ジェプソン、バンネル、ハワード・T・ハワード(ホルン・ソロ)、レイモンド・ヒューズ(合唱監督)etc.};4月22日 午後12時〜5時45分)


  ついについにやってきました、リング最終公演。ここでいよいよ神々の没落が描かれ、計16時間にも及んだ「ニーベルングの指輪」全編が完結するのです(何故か丁寧語の今回)。この神々の黄昏は、リング・サイクルの中でも異色な性格を持ち合わせています。まず、神々はこれまでの作品以上にその存在感を遠きに置いています。その証拠に、これまでの作品では神々の中心的役割を担ってきたヴォータンも、この神々の黄昏の物語の中では語られはするものの一度もその姿を僕たちの前に現す事はありません。すなわちこの神々の黄昏という楽劇は人間世界を中心に展開されるわけで、舞台設定もおのずと私たちの目に馴染む明るいものとなります。また、人間の象徴として、合唱が「ニーベルングの指輪」全編を通じて始めて登場するというのも大きな特色です。従って登場人物の数は前3作と比べ際立って多く、また上演時間も全ヴァーグナー作品中、いやオペラ史上でも最長と言える作品なのです。これで多少なりとも神々の黄昏のスケールの大きさが伝わったでしょうか。
  第1幕を終わって、相変わらず声が通らないスティ・アネルセン。しかし、
驚くべき事実が第2幕の開始を待つ僕たちの前で発表されました。今日の彼はなんと喉の調子をかなり悪くしているとの事です。とんだMETデビューとなってしまったアネルセン。しかし今日の公演は歌い切ると発表されました。この瞬間ジークフリートを聴く楽しみが失われた感は少なからずありましたが、やむを得ません。この楽劇の祝祭に立ち会えるだけでも貴重なことなのですから。第一このジークフリートを歌いこなせる歌手というのがただでさえ少ない訳ですし、会場を埋め尽くしたお客さんもこの残念な発表をある程度納得して聞いていた感じです。詳しくは、一緒に今回の指輪・第1サイクルを体験した太田健さんが音楽の友6月号の中で執筆されていますので、ミレニアム・リング・サイクルについてもっとお知りになりたい方は参照にされてはいかがでしょう。
  さて、この最終公演で特に感心させられたのは不調を押し切ってのアネルセンの熱唱やその類まれな声量でハウスを圧倒したイーグレンでもなく、極めて安定感に溢れ見事な表現力でこの好演を力強くサポートした脇役陣の活躍でした。特にグンターを演じたアラン・ヘルド、ハーゲン役のエリック・ハーフヴァーソン(彼は「ラインの黄金」で巨人弟ファフナー、「ヴァルキューレ」でフンディング、「ジークフリート」では大蛇に変わったファフナーを演じました。
正しく七変化の名脇役!ちなみにエルダ・シュヴェルトライテ・第一のノルンの計3役を演じた名ヴァーグナー歌手シュヴェンデンは次点ということで)の二人は最高でした。グートルーネを歌ったソンドラ・ラドヴァノフスキーも予想以上に声が出ていたし、演技もなかなかハマっていて素晴らしかったです。ラインの乙女達は「黄金」以来の登場となりますが、前回よりはバランス良くまとまっていたと思います。関係ありませんが、今思えばおしゃべりな彼女たちがアルベリッヒにラインの黄金の秘密をばらしてしまったが為にこの「ニーベルングの指輪」が始まったのですよね。としたら、神々の没落最大の犯人は、大神ヴォータンではなく彼女たちなのではないでしょうか?!!責任重大、自業自得のラインの乙女達・・・しかし悲しくも時既に遅し、です(笑・涙)。
  一方、「驚く」なんて言葉では済まされなかったと僕が思うのはオットー・シェンクの伝統的かつ豪華で大胆な演出です。これはLDやビデオで見られるものとほぼ同じものですが、
今回は槍が折れるなどといった珍事も無く、とにかく生で観るそのゴージャスなプロデュースに僕は目を奪われっ放しでした。序幕直後のラインへの旅の場(ブリュンヒルデの愛馬グラーネが舞台上に登場しなかったのは賛否両論かもしれませんが)や第2幕の夜明けの場も大変美しかったですし、有名なジークフリートの葬送行進曲の場も、ものの見事にクライマックスを演出していました。しかし中でも凄かったのはエンディング、キービヒ家の館が津波と共に崩壊しライン川の藻屑となる場面、ココしかないでしょう。ブリュンヒルデを巻き込む炎及び突然の閃光と共に柱や天井が崩れだし舞台全体が沈んでいく瞬間、それはあたかも会場全体がアミューズメントパークとでも化したかのような、誰もがそんな錯覚を覚えたに違いありません。そうして最後の最後に現代人が舞台をところ、これは極めてよくある演出なのですが、改めて直に見せられると本当に感激します。「そして神々は伝説となり、人類は新たな歴史を今も地上に刻み続ける・・・」そんな作者のメッセージが強く込められているのでしょう。
  しかしいつもヴァーグナーの上演をMETで見る度に思うのですが、この
メトロポリタン歌劇場管弦楽団は世界一タフなオーケストラではないでしょうか。この日もこのマチネーの神々の黄昏の後、「ボエーム」を夜8時半から演奏していました。ヴィーンのシュターツオーパーと違いオーケストラを二つにスプリットできないMETオーケストラは、言ってみればこの日ほとんど全員が12時間弾きっ詰めだった訳でして・・・。これにはもう感服の一言に尽きます。もちろんお客さんがピットのオーケストラに向ける拍手も、この日など特に盛大なものでした。世界一高給取りの偉大なオーケストラ、これもMETの大きな特徴の一つでしょう。
  お別れの時間が近づいて参りました。とにかく最後にここで言えるのは、皆さんにも是非一度
リングを鑑賞して欲しい、ということです。一度惹き付けられたらその虜になってしまうに違いないこのリング・サイクル、よく言われることですがリング鑑賞するものではなく体験するものなのです。こればかりは文章で説明できません。本当に僕自身貴重な体験をしたと思っています。皆さんも、いつかその不思議な魔力に触れてみて下さい。時代を超えた人類共通の普遍の芸術精神が、そこにはあります。


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