#〜 キムラのNY音楽通々信
(おんがくツウつうしん)




キムラの リングサイクル・レポート2000



  ここでは、有料・無料を問わず年間100以上の音楽会に通う私木村康人がNYで実際に触れたステージについて、随時レポートしていこうと思います。クラシック音楽にご興味のない方も、これを読めば「ツウ」になれる?!んなことは無いでしょうが、音楽のジャンルにはこだわらず書いていくつもりですので、お見逃し無く。あと、ヴァーグナーについてはなるべく万人向けに気合入れて書くつもりですので、是非読んでみて下さい。
  それでは、お楽しみあれ・・・









NY音楽通々信はこれにて完結とさせていただきます。


長らくのご愛読ありがとうございました。






22、「The Orpheus」
オルフェウス室内管弦楽団カーネギー定期
(カーネギーホール ; 10月7日 午後8時)

  プログラム・・・ストラヴィンスキー/「ミューズの神を率いるアポロ」(1947年版)、R.シュトラウス/「クラリネットとファゴットのためのデュオ・コンチェルティーノ」(ソロ;チャールズ・ナイディック(Cl.)、フランク・モレッリ(Bn.)、コープランド(デル・トレディチ編)/「ミッドデイ・ソーツ」(NY初演)、ベートーヴェン/交響曲第8番ヘ長調作品93
  残念なことをいくつか。いつも思うのだが何故か
Orpheusのカーネギー公演は客足が悪い。これほどのレベルの室内オケはNYでも滅多に聴けるものではないのに何故だろう。保守的なNYのリスナーはこの種の前衛的な団体は毛嫌いするのであろうか。Orpheus自体も指揮者がいないというのを全面に出すのは良いが、「折れた指揮棒」のPRポスター等、それにネガティブな印象が付き纏うのが気にかかる。指揮者を否定するのではなく、それの価値を見出したところでの究極を目指して欲しいと思うのは僕のみの緩慢な感情であろうか?
  演奏技術のレベルについては
もはや言うまでもない。全員が一糸乱れず、これだけ要所要所がきびきびと「ハマる」アンサンブルは超人芸の極致だ。一人一人がかなり弾き込んでいるため音量もそこらの中小オケ並に出る。あれだけ体を使って演奏する楽隊の様はベルリン・フィルでもそうそう見られない。僕は一度彼らのシェーンベルク「淨夜」のリハーサルを見せてもらったことがあるが、それはそれは凄かった。第2ヴァイオリンの奏者が舞台と客席を行ったり来たりしながらスコアを読みバランスを聴き、トップ奏者同士の議論が始まったかと思えば全員がそれに関与しあい・・・とにかく初めて目の当たりにする異様な光景であったのを今でも覚えている。
  ただ今夜に関して言えば演奏自体に不満無きにしも非ず。今回メインのベト8、
1楽章曲尾のリタルダンドはいただけない。僕はあれほど悪趣味なものはないと思うのだが、それが彼ら全員の音楽的判断だったのであろうか。指揮者なしであのような非音楽的なアゴーギクはもちろん至難の業だろうが、これを見せ付けられた後の楽章間は非常に冷めた。また3楽章のトリオではクラのソロにはがっかり。この日のソリスト、ナイディックがセカンドというのも面白くてよかったが、肝心の第1奏者が1つ目のハイGを外しているようではお話にならない。ソロイスティックな演奏に走りすぎて本末転倒だった気がする。とにかく全体的に「えらい筋肉質のベートーヴェンやなぁ」という印象を受けた。もっとピュアで曲の面白味を活かした演奏をして欲しかったのだが、今回は強引に技で押し切ったといった感じだ。小気味良すぎる快速テンピ(Tempi)もそれに拍車をかけた気がする。まあ指揮者を置かないOrpheusこの曲を取り上げただけでもブラボーものなのだが。去年の今頃見たエロイカよりもある意味エキサイティングではあったが、音楽的にやはり似たような疑問が残った次第だ。来年1月20日の第1番に期待しよう。
  



21、「ドン・ジョヴァンニ・ア・セナル・テコ・晩餐に招かれたので参った」
メトロポリタン歌劇場 W.A.モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」
(レヴァイン指揮、ターフェル、フレミング、ホンetc.;10月6日 午後8時〜11時40分)

  実を言うと、僕がMETに於いてドン・ジョヴァンニ(以下DG)を鑑賞するのは今回が始めてである。タイトルロールにブリン・ターフェル、ドンナ・アンナ(以降DA)にルネ・フレミング、指揮にレヴァインと正に役者が揃った感のある今夜の公演、僕は満を持して立ち見券を購入した。このオペラを立ち見するという行為はオペラ・ファンとしても一種の覚悟になり得る。なぜならこのDGは総演奏時間3時間を誇る上、完全な二幕ものである。つまり休憩が幕間の1回に限られる訳で、計2回体験しなければならない連続1時間半の直立(しかも動けない)が人間を全く疲れさせないかといえばウソになるからだ。これはある意味ヴァーグナー並だ。音楽はヴァーグナーのそれと正反対で、作品を通してこれでもか!というほどのアリア攻勢なのだが、それはまた歌が酷いときほど洒落にならない。今回はターフェル、フレミングそしてツェルリーナを歌ったヘイ=キョン・ホンのさすがの歌唱に至極満足する事ができたので、その点では報われたといえる。ドンナ・エルヴィラ役のクリンゲルボーンには少々不満が残ったが・・・。
  管弦楽に於いては、序奏の冒頭からジミーのロマンティックで濃厚な音楽が展開された。僕はこの人がウィーン・フィルと入れてるモーツァルト交響曲全集なるたいそうな代物すら持っている
隠れファンなのだが、実演で接するこの人のモツはどうもいけ好かない。やけに焦燥感を感じたり荒削りな演奏という印象を受けたりすることもざらだからだ。今夜のDGも決して僕の好みではないが、まぁDGということに免じて及第点を挙げておこうではないか。劇的な作り方は彼ならではといった感じであったし。
  さて、モーツァルトの3大オペラとしてよくフィガロの結婚、
DG、魔笛の3つが挙げられる。これにコジ・ファン・トゥッテを加えて4大、さらに後宮からの誘拐を足して5大オペラとも言われたりするが、その中でもDGは私が最も敬愛するオペラと言っても良い。DGをなんと万世最愛のオペラとする師マイケル・チャーリーの影響も大きいが、やはりこの喜劇のような悲劇のような何とも言えない微妙さがフェロモン出しまくりでたまらない。もちろん僕はフィガロやコジも大好きだしそれらが人間史上最上の美で溢れていることに疑いの余地はないと思っているが、そのフェロモンということで敢えてここではDGをベストに据えさせて頂こう。最後に、このオペラでたまに引き合いに出されるDGがDAとヤったかどうかと言う話。僕の見解ではこれはSi(Yes)である。劇中の台詞回しでは命からがらDGの魔の手から抜け出したと言うことになっている(1幕第13場)が、この場面にモーツァルトが付けた生々しい音楽やその芸術表現から察するに、これはSiだ(断言)。詳しい根拠についてはここでは言及しない事にするが、それにしてもオペラは奥が深い。うむ。





20、「しんこつちよう」
ニューヨーク・フィルハーモニック・カーネギーホール公演
(カーネギーホール;4月25日 午後8時)


  プログラム・・・グバイドゥーリナ/トゥー・パスズ〜2つのヴィオラと交響楽のための音楽(ソロ;シンシア・フェリプス、レベッカ・ヤング)、マーラー/交響曲第1番ニ長調、指揮;クルト・マズア
  NYPがカーネギーホールから撤退して久しいが、2000年という記念すべきこの年にカーネギー公演が再実現する運びとなった。マーラーの1番は、同作曲家の5番、「春の祭典」、ベートーヴェンの7番等と並んで
僕がもっとも多く実演に接している曲でないかと思う。実際この第1番「巨人」は彼マーラーのシンフォニーの中でもとりわけ取り上げられやすく従って演奏回数が多い曲であるのだが、しかしながら僕自身この曲の稀代の名演と言うのに出会ったのはこれまで皆無である。クリ−ヴランド管弦楽団もサンフランシスコ交響楽団もオスロ・フィルも、当初の僕の期待をことごとく裏切ってくれたものだ。マラ1は、オケの楽器としての実力が顕著に表れると同時にその表現力を際限なく注ぎ込める、実は世間での評価以上に懐の深いレパートリーであると僕は思う。そんな曲をメインに添えた今夜の公演は、ヴィルトゥオージ集団NYPの潜在能力が遺憾なく発揮された文字通りの名演であった。観客のアプラウズもエイヴリーフィッシャーでのそれとは比べ物にならないほどの異質のもので、実のところエイブリーフィッシャーで僕がこれまでに体験したNYPのどんな演奏よりも素晴らしかったのではないだろうか。今夜のプログラムは定期にはない独自のものであったが、それも少なからず影響を及ぼしたのかもしれない。しかしそれにしても僕はエイヴリーフィッシャーホールで全く同じ組み合わせで過去何度かこの曲を聴いてきたのだが、今夜これほどの素晴らしい演奏に出くわす事になるとは正直想像もできなかった。ただ単にホールの残響問題や演奏空間の問題でなく、指揮者の集中力とオーケストラの自主性のバイオリズムが偶然にもぴたりと一致し歯車が無駄なく噛み合って廻った、そんな夜にたまたま僕は立ちあえたのだと言って良いだろう。グバイドゥ−リナも、二人の首席ヴィオラ奏者の極めて高水準のテクニックと豊富な音楽性に素直に共感できたし、オケもこの難易度の高い現代曲からさすがの名人性を証明して見せてくれた。久し振りに幸せな気分でカーネギーから帰路につけた僕である。





19、「ホイホーホーホーハーゲン・さらば神々よ黄金の指輪よ」
第三夜「神々の黄昏」

(メトロポリタン歌劇場{
ジェイムズ・レヴァイン指揮、アンデルセン、イーグレン、ヘルド、ハーフヴァーソン、ラドヴァノフスキー、パルマー、ガイヤー、ジェプソン、バンネル、ハワード・T・ハワード(ホルン・ソロ)、レイモンド・ヒューズ(合唱監督)etc.};4月22日 午後12時〜5時45分)


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18、Fantasia 2000
(リンカーン・スクエア・ソニーIMAXシアター;4月19日 午後8時半)


  個人的にはNYを舞台にした
「ラプソディ・イン・ブルー」のアニメが好きだったな〜。日本では結構閑古鳥が鳴いていたそうですが、このような「音楽を見る」、「目で音を聴く」ジャンルを通して、少しでもクラシック音楽が一般に定着することを強く願います。それにしても指揮者ストコフスキーを始め、半世紀も前にオリジナルを製作した人・・・感服します。





17、山下由麗(打楽器)卒業リサイタル
(マネス音楽大学コンサートホール;4月18日 午後8時)


  プログラム・・・J.S.バッハ/無伴奏チェロ・ソナタ第1番ト長調(マリンバ版)、I.アルベニス/マリンバ独奏のためのレイェンダ、M.ラヴェル/道化師の朝の歌(2つのマリンバのための)、S.フィンク/スネアドラム組曲、E.カーター/サエタ(「4つのティンパニのための8つの小品」より)、A.コッペル/ヴィブラフォーンとマリンバのためのトッカータ、L.H.スティーブンス/マリンバ独奏のためのリズミック・カプリース。





16、「ホーホーハーハイノートゥング・そう我が名はジークフリート」
第二夜「ジークフリート」

(メトロポリタン歌劇場{ジェイムズ・レヴァイン指揮、アンデルセン、イーグレン、クラーク、モリス、ヴラシハ、ハーフヴァーソン、グラント・マーフィー、シュヴェンデン;4月15日 午後12時30分〜5時45分)

  
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15、セントクレア指揮シュツットガルト放送交響楽団
(エイヴリー・フィッシャー・ホール;4月12日 午後8時)


  マーラーの1番等演奏予定も、スポンサー撤退でツアー公演中止。無念・・・。チケットは他公演に振り替え。





14、「『見切れ』トスカ」・・・ニューヨーク・シティ・オペラ プッチーニ「トスカ」 
(モステラー指揮 ホール、ポルティッラ、ニーボーン etc.
(ニューヨーク州立劇場;4月8日 午後8時)

  
  トスカ
劇的である。タイトルロールの「トスカ」を始め、中心人物のほとんどが劇中で予期せぬ死を遂げるトスカ唯一の女性の登場人物という点もクライマックスをおのずと頂点へ高める要素である。マーク・ラモスによる演出は、これらの点を吟味した内容の濃いものであった。モダンだが行き過ぎないステージ設定や照明は評価できるだろう。第2幕、対角線上に鋭角的に配置された赤を主体にするセットは、この幕のクライマックス、トスカ血にまみれるであろうナイフに通ずることになる。カヴァラドッシが「勝利だ!」と熱唱する場面、舞台はやはり死を暗示する赤色に照らされる。あたかもゲシュタポ的な警官隊の動作もドラマ性を高めている。歌手陣の演技も悪くなかった。トスカのスカルピア刺殺のシーンで、まずトスカはその警視総監の背中を一刺し、そして胸、腹と計4回に渡って刺し彼を死に至らしめる。第3幕のカヴァラドッシ処刑の場面は、警官隊が銃を手に死刑囚を取り囲み、最後は後ろから頭を撃ち抜くというものであった。今回のトスカではこれが「パルミエーリの時のように」という事なのだ。歌姫トスカがワイン(という設定の飲み物)を口にはするが飲まなかったのは無論仕方ないが、聖堂の番人が実際にリンゴを食したのはいとおかし。今回の配役はそれ相応に見事にマッチしていたが、特にトスカ、スカルピアは舞台栄えも良くハマリ役であった。また全体的に歌唱自体にとくに大きな問題は見られなかったのも安心点。有名な「歌に生き、恋に生き」「妙なる調和」「星は光りぬ」もまずまず。合唱はやや雑であったように思うが、今回は良しとしよう。
  問題点をいくつか。第2幕の最後で
トスカがろうそくを奉げる場面は割愛され、十字架のペンダントを彼の手に握らせるのみだったのだが、ここでの過剰なスポット照明はいまいち逆効果ではなかっただろうか。折角の斬新なセットが古めかしく転じてしまった感が無きにしも非ず。スカルピアが重唱で聴こえないというのは常に付きまとう問題だが、とりあえずこの州立劇場で管弦楽はトゥッティに於いてもう少しバランス面での配慮が必要であったかも知れない。これは僕の座っていた5階サイド席というせいもあるのだが。そしてその桟敷席だが、実はとんでもないものを見ることが出来た。トスカの「見切れ(*)」だ。最後のトスカの投身自殺のところで、早々と城壁の後ろでトスカをサポートする裏方の人間が「見切れ(*)」ていたし、そしてまた飛び降りた後のトスカもこれまた「見切れ(*)」ていた。今回彼女の飛び降り方はなかなか決まっていたが、それより笑いをこらえるのに正直大変であった。何年か前にボストン・リリック・オペラで天上桟敷からこの「トスカ」を見た際、太った歌姫がトランポリンをバウンドしたのを見てしまったという信じられない事が実際にあったが、今回はそれ程ではないにしろかなりウけたのである(笑)。ある意味これは桟敷席(しかもサイド)席のメリットなのかも知れない。初めてこのオペラを見る人にとってみたら災難ではあるが、過去に最低5度は見ている筆者にとってはこれは有意義なイベントであった訳だから。とにかくトスカのラストシーンは、丁度100年前の初演時から既に最大の見もの。今後もオリジナリティ溢れるものに巡り会いたいという多少背徳だが怖いもの見たさ的な願いは常日頃持っている筆者であった。
 


*「見切れ」・・・舞台袖の照明や大道具、待機中の役者等、とにかく客席から見えてはいけないもの。またそれらが見えてしまうこと。





13、デイヴィッド・ヘイズ指揮マネス管弦楽団 
フルート;バリー・クロフォード  ソプラノ;キャスリーン・ヴィスカルディ
(シンフォニースペース;4月6日 午後8時)

  
  プログラム・・・バーバー/「いたずら学校」序曲、リーバーマン/フルート協奏曲、ミヨー/「ロンザルトの歌」、マルティヌ/交響曲第4番。
  リーバーマン(1961〜)はアメリカの若手作曲家。マネス音大オーケストラの1999−2000シーズン第5回目の演奏会。地味といえばかなり地味なプロ。フィラデルフィア・シンガーズ音楽監督、またカーティス音楽院で講師その他を務める指揮のヘイズは、今シーズンからこのマネス管弦楽団の副指揮者を務めている。
  今夜の演奏会について。ヘイズの演奏は終始オーケストラの交通整理に徹したもので、本人の意図やら解釈やらはほとんど見えてこなかったに等しい。これは演目所以という訳でもなさそうである。つまりはこの曲を取り上げた意図がもう少し明確に現れる演奏を期待していたのだが・・・。また肝心なところでオーケストラは鳴らない、ハモらないという
言わば不完全燃焼的消化不良型演奏。演奏面に於いて、オーケストラ自体ある程度の技術的水準には達していたかも知れないが、それでも今年度の過去4度の演奏会と比べるとかなり物足りないものであった感は否めない。特にマルティヌなど、指揮者は練習の段階からよりきめ細かなヴィジョンを持って、それを順序立ててオケに浸透させる必要があったであろう。曲が曲だけに、なおさらだ。
  ちなみに筆者、この晩のオーケストラは自己申請して降り番であった。






12、ジャック・ズーン・マスタークラス
(マネス音楽大学コンサートホール;4月6日 午前9時30分)


  ジャック・ズーンはボストン交響楽団の首席フルート奏者、小澤征爾氏のお気に入り。オランダ生まれの彼による大変熱のこもった、しかしユーモアに富む指導法には大変好感が持てた。北米のエマニュエル・パユ的存在(もしかしたら彼以上か?!)






11、「ホーヨートーホーハイアハー称えよノートゥング宿望の剣」
リヒャルト・ヴァーグナー「ニーベルングの指輪」第一夜・楽劇「ヴァルキューレ」

(メトロポリタン歌劇場{ジェイムズ・レヴァイン指揮、ドミンゴ、ヴォイト、ハーフヴァーソン、モリス、イーグレン、シュヴァルツetc.};4月1日 午後12時30分

  木村のリングサイクル・レポート2000をご覧下さい。




10、アンドレ・プレヴィン指揮カーティス音楽院交響楽団 
ヴァイオリン;ジェイミー・ラレド 
(カーネギーホール;3月30日 午後8時)


  プログラム・・・ロレム:第三交響曲、モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第3番ト長調K216、ブラームス交響曲第4番ホ短調作品98
  カーティス音楽院(ペンシルヴェニア州フィラデルフィア)はジュリアード音楽院と並んでアメリカを代表する音楽学校の一つ。ジュリアード音楽院との大きな違いは、専科毎に設けられた入学者の年齢制限とそれに基づく少数精鋭の教育方針、及び全生徒に与えられる全額奨学金制度にある。
かのセルジウ・チェリビダッケが生前唯一指揮したアメリカのオーケストラとしても知られている。ちなみに人数の関係もあり、学校を通じて本格的な管弦楽団はこのカーティス音楽院管弦楽団一つしか存在しない。そんなこの学生オケの高い精度は、ロレムで見せた高度なテクニックと精緻なアンサンブル能力で見事に証明された。モーツァルトもソリスト・ラレドの集中力に若干問題があったものの、オケの奏者それぞれから若いなりの古典派的演奏に対する努力を感じられたのは良い。ブラームスも、プレヴィンの決して熱っぽくはないがテンションの高い指揮で良い意味アマチュア的な演奏を聴かせてくれた。あれだけ弦セクションが張り切って演奏しているのは若さの証拠だが、観ていて聴いていてとても壮観なものがある。技術そのものは確かなのだから、今後はより一層色彩感のある音色作りを心がけて欲しいものだ。デュナミーク的にも、「フォルテはフォルテ、ピアノはピアノ」的な単色的なものから、今後はより音楽的なイマジネーション溢れるものをオーケストラに反映させてくれるのを期待したい。管楽器は大きなミスも見られずピッチも全体的に安定していた。しばしば見られた木管特にホルンのアインザッツの乱れ等も、ホールに慣れていないという事やオーケストラ経験の多少もあるしそれ程大きな問題ではないだろう。最後にこれは管弦打全てに言える事だが、各々がオーケストラ的演奏の極致に対する明確なヴィジョンをもって日々の練習に生かしていけば、将来アメリカの音楽界への大きなプラスに繋がるはずだ。必ずしもソリストになることがが器楽演奏の頂点ではないのだから。





9、太田健(作曲)リサイタル 
(マネス音楽大学コンサートホール;3月29日 午後8時)


  プログラム;「マリンバとヴィオラのための組曲」(1999)、「いたずらっ子の4つの小品〜フルート、ホルン、トランペットとピアノのための」(1995)、「ブロークン/コンティニューム(ヴィオラ独奏とモダン・バレエのための)」(1998)、「クラリネット四重奏曲」(1999)、「トロンボーンと弦楽四重奏のための五重奏曲」(2000)。
  太田健(たけし)氏は京都市立芸術大学大学院音楽学部作曲科卒業、現在は奨学金を受けマネス音楽大学大学院作曲科に所属。今回の演奏会は彼の卒業コンサートの一つであり、ヴィオラやクラリネット、トロンボーンといった
中低音楽器を中心に据えた演目が並んだ。ちなみに最後の新作の五重奏曲を除き再演となるが、起用される演奏者がニューヨーク初演時とは若干異なる演目も含まれている。
  1曲目にして高度な技術的要求もされる大曲の登場であったが、マリンバとヴィオラという言わば異種格闘技的組み合わせがここでは
極めて有機的に融合されており、主要動機の展開及び声部交換は非常に効果的で目を見張るものがあった。どちらかと言えば地味ながら、5つの個性豊かな楽章から成るこの作品自体の独創性についても高い評価が出来ると言えよう。第2曲目は、アンサンブルの難易度もあろうが管楽器奏者に今ひとつ音楽的余裕が見られなかったのが残念。しかし例えば第2楽章「ロシアの小さな泥棒」などは彼の音楽の間口の広さや柔軟性を物語る最も特徴的な楽曲の一つではないだろうか。休憩後のヴィオラ・ソロは、楽器の音色を十二分に引き出した彼の簡潔かつ華麗な書法の巧みさに尽きる。クラリネット四重奏は今回最も聴衆に好評を博したであろう傑作で、それはフランス和声に精通する彼の高度な作曲技法や瑞々しいリズム感に溢れ、全4楽章を通じ彼らしさを全面に打ち出していた。またバス、ピッコロを含む奏者4人の息の合ったアンサンブルも終始安定感があり見事であったと付け加えておこう。
  彼の複数楽章を持つ作品は、
概して快活な旋律とリズムを主要素に構成されるフィナーレで全曲を閉じるケースが多い。最後を飾ったトロンボーンを含む五重奏曲もそんな例に漏れないものであったが下手するとマンネリズムとも取られかねないリズム及びテーマの反復には好みの分かれるところかも知れない。だがこの五重奏曲の特に入念に計算された楽器間の好バランス、洗練された主題及びその発展の多様性には大きな感心を覚える。とにかく再演を期待したい。
  
作曲家の作曲家たる所以は、独自のサウンドを何処まで追求出来るかに依存すると筆者は考える。そんな中で、彼の作品群は今日の作曲界に於ける調性回帰の方向性を裏付け得るものであり、今回の成功を機に若手作曲家太田の今後の一層の躍進を期する次第だ。





8、「チェコ味の弦とホルン〜ボヘミアの土と風」・・・ウラディミール・アシュケナージ指揮&ピアノ;チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
(エイヴリー・フィッシャー・ホール;3月26日 午後3時、27日 午後7時30分)


  演目の方をご紹介しよう。1日目は、45歳の誕生日を目前にアウシュヴィッツでその生涯を終えたプラハ生まれの作曲家ハンス・クラーサによる「交響曲」とやはりボヘミアはカリシュト生まれマーラーの交響曲第7番「夜の歌」、2日目はアシュケナージの弾き振りでモーツァルトのニ短調協奏曲K466、ヤナーチェクの「利口な子狐」組曲、そしてドヴォルジャークの交響曲第7番作品70である。二転三転したが、結局は以上のようなチェコの作品をふんだんに取り入れたプログラムに落ち着いた。
  僕はこのオケの実演に接するのは始めてであったが、まず感じたのはこれは非常に弦管のバランスに優れたオーケストラであるということで、特に
弦の実力は期待以上のものであった。クラーサのようなレパートリーで不自由ない豊かな表現力を感じさせたのは、やはり彼らのチェコ人としての血のなせる技なのだろうか。このオーケストラはウィーン・フィルにも匹敵するような大規模の楽団であり、女性団員が数えられるところわずか3人(うち二人はハープ奏者)というのもウィーンのそれを彷彿とさせる。だが今回はホールに恵まれなかったせいもあるのか、オケ自体にそれ程パワーが感じられる訳ではなかった。金管楽器に関しては、アメリカのばかでかい金管のボリュームに慣れさせられ始めている筆者にとってはこれくらいのボリュームが自然かつ心地よく感じた次第であるが。不満はある。メインのマーラーやドヴォルジャークのような曲で、アシュケナージの特にホルンの際立たせ方にはもう少し配慮が必要であろう。意外(?)に内声を強調するような事はあっても、肝心な主声部を受け持つところでかなり消極的な印象を与えさせられてしまったのはいただけない。結果としてやたらトランペットばかりが目立ってしまうというバランスに難のある箇所がいくつかあった。それともこれがチェコ流というものなのだろうか。実物を目の当たりにして多少戸惑ったのは事実である(伝統あるチェコのホルンの特色として、調性が変ロ中心ということと温和な演奏スタイルというのが挙げられる。「スラヴ的な精神世界や鉄のカーテン時代の影響があるのでは」(ヴラベッツ)ということだ)。ドヴォルジャーク3楽章練習番号AやJの8小節目の箇所で楽譜ではmfとあるホルンパートをCの8小節目との対比のため強調されたりしたのは理解の範囲内としても、それでいて何故1楽章Bのソロや、Nの12小節目前のソリ等は聴こえてこないのだろう。全体的にホルンセクションは極めてストイックな演奏に終始しており、ffの強奏の箇所はどこをとっても聴く側としてはいささか欲求不満なものであった。チェコの名物奏者トレシャル兄弟や若干20歳の新星首席奏者オンドゥジェイ・ヴラベッツでソロが聴けなかったのも残念である。
  ともかく
最大の問題はアシュケナージの指揮だ。ドヴォルジャークの書いた最も美しい音楽の一つ、第7交響曲の第3楽章(ちなみに僕はあらゆる交響曲の「第3楽章」の中でもこれが1番好きかも知れない)も、何故か音楽が一向に前へ進まない。アーティキュレーションも雑で大味に聴こえた。かなり棒が邪魔をしているという感がある。彼のような「二束のわらじ」指揮者にかのバレンボイムが挙げられるが、こと指揮に関しては、はっきり言ってアシュケナージは彼の才能には遠く及ばないであろう。録音では素晴らしいものもいくつか世に出している棒振りアシュケナージではあるが、ピアニストとしてのこれまでの活動を思えば未だ中途半端な感があるのは否めない。指揮以外では、コンサートマスターがどうもしっくりこなかった。オケの自主性が問われる箇所でもそれといった音楽的なリードが認められず、奏法もなんとも表面的で冷たいものであった(それでもオケのアンサンブルがかなり精緻を極めているのは見事としか言いようがないが)。
  その他の関心事。マラ7第4楽章で、楽団員(第3オーボエ奏者と第1ヴァイオリン奏者)がチェロの第1プルトに移動しマンドリン、及びギターを演奏したという一幕は微笑ましいものであった。この前のブーレーズ/ロンドン響でも、ペトリューシュカで第1ヴァイオリン奏者の一人が途中チェレスタを奏する場面を見かけたが、僕はこういう種のイベントには好感を感じる方である。またモーツァルトでのオケのしなやかな響きは、モーツァルトの模範演奏の一例と言っても良いだろう。このオケの奏者一人一人が古典的演奏をわきまえているという好印象を受けたし、このようなオケを前にアシュケナージの指揮は大きな不安を感じることなく楽しめた。ソロも、第3楽章のカデンツァ等で多少不自然な音楽もあるにはあったが、経験の豊富さを糧に無難かつ的確にまとまっていたと思う。チェコもベルリン同様インターナショナライズが進んでいるのだろうが、この鼻にかかったようなホルンの音色といぶし銀の弦の響きはなかなか他では味わえないものだし、そういう意味で良い体験をした2日間であった。


 



7、「ハイアーヤーハイアーいざ行かんヴァルハラの城へ」
リヒャルト・ヴァーグナー:3日と一晩の序夜のための舞台祝典劇「ニーベルングの指輪」
序夜・楽劇「ラインの黄金」
(メトロポリタン歌劇場
{ジェイムズ・レヴァイン指揮、モリス、シュヴァルツ、ホン、ラングリッジ、ヴラシハ、シュヴェンデンetc.};3月25日 午後2時)


  木村のリングサイクル・レポート2000をご覧下さい。




6、「若き舞台から」・・・Selected Scenes
(The American Musical and Dramatic Academy;3月18日 午後6時30分)

  僕が3年前に卒業した学校はボストン郊外の芸術高校で、全校生徒数は少ないものの大変幅広いジャンルの専攻を持っていた。音楽(ピアノ、弦管打楽器、声楽、ギター、作曲)を始め、美術(絵画、陶芸、彫刻、写真、デザインetc.)、文学(詩・小説etc.)、舞踊(バレエ、モダン)、そして舞台(演劇、ミュージカル、演出)といった部門があったが、この中で特にミュージカル専攻科に関してはやはりアメリカ独特の雰囲気があり、同時にその世界の競争の厳しさを見せ付けられる時にも少なからず遭遇した。マンハッタンにあるThe American Musical and Dramatic Academy、通称AMDAは、そのような舞台俳優を志す若者が通う専門大学の一つである。僕はアメリカ来て一年目の時に高校のミュージカルのピットでヴァイオリンを弾いたりする機会があったが、まずステージで歌い踊る米国の高校生のその水準の高さに率直に驚いたものだ。日本人がやると何処となく野暮ったいような芝居でも、高校生とはいえアメリカ人がやると何故かハマる。僕がアメリカで通った2つの高校は、両校ともミュージカルに関しては一演目につき数日間から1週間の連続公演をこなしていたが、連中の機転の良い演技やさり気ない表情の豊かさやアドリブ等にはいつもさすがだなと思っていた。これはやはり彼らの日々の努力や生まれ持ったセンスが成すもので、この国の役者層の厚さを象徴しているように思う。また一方で、ハリウッド俳優から一般の子役まで何故アメリカ人は異様に演技力があるか、という事実にもこの事が繋がっているのだろう。若い頃からこのような機会にふんだんに恵まれているのだ、アメリカの人達は。
  前置きが長くなってしまった。本題に移ろう。この晩僕が見たのはAMDAで本番4公演が行われた演劇の舞台集の一つだ。演劇について素人の僕だが、生徒のきびきびした良い意味アメリカ的な演技は素直に楽しめた。これでもっと各劇の話の筋を知っていれば一層良かったのだが。この学校に通うただ2人の日本人の中の一人、和智さんの演技も光っていた。彼女はデイヴィッド・ヘンリー・ホワンの芝居「M.Butterfly」(1988)では主役も演じていたのだが、きめの細かい研究された演技はなかなかの出来であったように思う。アメリカ人に対して気合負けなど微塵も感じさせないところが見事かつ印象的であった。
  だがミュージカルや特に演劇は、客観的に考えて僕がやっている音楽の世界よりも
日本人であるという事のハンディが大きい世界だと言わざるを得ない。一昨日のRENTでも一人東洋系の役者がいたが、やはり相当な競争を勝ち上がった人物なのだろう。最近になってようやく、野球やサッカー、ゴルフ、スキーといったスポーツの世界で外国人と対等に近いレベルで活躍する日本人が増えてきたが、今度は舞台の世界で、東洋人という事を感じさせない素晴らしい演技力やカリスマを持つ役者が当たり前のように世に出てきて欲しい。そんな時代が来るを待ち遠しく思う今日この頃だ。僕は和智さんを始め多くの役者志望の若者にNYで出会ってきたが、彼女たちの奮闘に大いに期待する次第である。それが文化の真の国際化を生み、芸術の意義を幅広く世に広めるきっかけになるのであろうから。






5、「聖地(メッカ)の舞台から」・・・ レント
(ネダーランダー劇場、3月16日 午後8時)

  僕はミュージカルは食わず嫌いなところが昔はあったが、最近は機会に恵まれかつ時間の許す時があれば行ってみるようにしている。NYの何が他都市の追随を許さぬかと言えば、やはりシアターであるからだ。ブロードウェイは今日もミュージカル及び演劇の聖地である事に代わりは無いだろう。
  さてRENTだが、僕のようなクラシック畑の人間から見れば、いやそうではなく誰でも客観的に見ればこれが紛れも無くボエーム(プッチーニ)であると分かる。BGMこそオーケストラかロックバンドかの違いはあれど、基本的に登場人物もほぼ瓜二つだし、物語も同じと言って良いほど似通っている。ただ面白いのはエンディング。ボエームでは結核で死んでしまうミミが、何故かレントではAIDSから彼女が生き返り一応のハッピーエンドを迎える。
これは知らないと結構ショッキングではある。ここでミミが死ぬのがやはり筋では。とオペラを見ている僕は思うが、なーにその辺はミュージカル、この臨機応変な具合が丁度良いではないか。余談だが、RENTは収益金のかなりの部分をチャリティーとしてAIDS団体等に寄付している。これはアーティスツして実にすーばらしー(小澤征爾調で)姿勢だと深く感心する(失礼)。
  相変わらずレントは人気が高い。平日であるにも関わらずこの雨の日の晩も劇場は満員御礼であった。このような舞台が、クラシックもジャズもダンスもプレイもとにかくジャンルを問わず連日連夜のように行われているNYは、やはりヴァイタリティ溢れる街だとつくづく思う。鑑賞に要する費用も日本のそれと比べれば格安だし、どんな芸術でも気軽かつ手軽に楽しめるアトモスフィアが何より立派だ。そういう種の
「心の余裕・豊かさ」が、世界唯一の超大国・アメリカたる所以なのだと筆者は改めて思うのであった。





4、「Sweet ジャズ・ナイト」・・・Jazz at Sweet Basil by Michele Rosewoman and Quintessence 
(Sweet Basil;3月15日 午後9時)

  今晩はゲルちゃんにジャズに、誠に音楽三昧である。スウィート・ベイジルは、ブルー・ノートやヴィレッジ・バンガードと並んで日本人に人気のあるマンハッタンはグリニッジ・ヴィレッジの名門ジャズ・バーだ。ジャズは良い。何が良いかというとその雰囲気が良い。僕はジャズに関して特に専門的な耳は持っていないが、こと音楽芸術に限って、それを持ち合わすことが音を楽しめるか否かに繋がる訳ではない。クラシック音楽に関しても僕はそうだと思う。音楽とは要は「感じるか感じないか」だけであって、専門的な能力・知識云々は付加価値の一つにしか過ぎないのではなかろうか。実際に音楽会に足を運ぶ人で、本当に音楽の事を理解できる人など何人いるだろう。逆に言えば、聴衆や定期会員全員が評論家だったら、音楽界ましてアメリカのオーケストラ界など決して成り立たないと思うし、ジャズにしたって客の誰もが即興の名手であろうものなら、何故高いカバー・チャージを出してまで他人の感性に耳を傾ける必要があろうか。知らぬが仏と言う事もあるし、たまにはこういうムードに浸って連れの者と一言二言交わしながら夜のひと時を満喫するのが、人たるものの過ごし方であろう。うむ満足。




3、「露西亜の商人ゲルギエフ」・・・ワレリー・ゲルギエフ指揮ニューヨーク・フィルハーモニック、ラッシュアワー・コンサート 
(エイヴリー・フィッシャー・ホール;3月15日 午後6時45分)

  ゲルギエフは客の呼べる指揮者である。ロシアはおろかヨーロッパ、アメリカでの人気は大変なものだ。そんな彼がついにベートーヴェン(しかも第6番「田園」)を振ると言うのだからファンは黙っちゃいない。僕は、近年ウィーン・フィルデビューも果たした新進気鋭の彼が一体何をしでかしてくれるのか、かなり背徳な気持ちを背負って会場に足を運んだ。彼は実に面白い指揮者だ(古典音楽にかなっているかどうかはともかく)。彼は客の集まる場所へ出没する。2年前キーロフ・オペラ・フェスティバルと称してメトロポリタン歌劇場で2週間以上にわたる大胆なキーロフ歌劇場の引越し公演以来、彼のNYでの実演及びNY進出の動向に僕は多少目を光らせていた。MET初の首席客演指揮者というポストを手中に収めた彼はそれだけに飽きたらず、虎視眈々と更なる頂点へ登りつめようとする。彼の次なるターゲットは他でもない、泣く子も黙るNYPであろう(憶測)。ベートーヴェンのシンフォニーは、このようなメジャー・オケにとって一種の鬼門だ。下手したら指揮者など無用の長物(あるいはそれ以下)にしかなり得ないレパートリーであるからだ。彼のケイレン(痙攣)コンダクティングは、指揮棒を持たなくなった最近より一層その怪しさを増したが、今回のオケの反応はいたって冷静であった。彼のオリジナリティが発揮されるのは、時たま垣間見せる奇妙なアゴーギクに尽きる。これが仮にチャイコフスキーなら現代的ロシア風として解釈されて然るべきものかもしれないが、今晩のアントレは天下の楽聖の「田園」である。小細工など一向に通用しない。まず印象を一言で言えば、バランスが悪すぎる。2楽章の弦楽器のミュートの問題や、オクターブの上下問題が伴う4楽章のピッコロなども含め一貫して楽譜に忠実に処理した彼だが、まずどの程度深くまでスコアを読んでいるのかどうかが疑問だ(ちなみに使用楽譜は慣用版のブライトコプフ)。とにかく第一ヴァイオリンばかり際立たせ、内声への意識を感じられた箇所など全曲中数えるほどしかない。音楽の流れ自体に何故か胡散臭さが付きまとうのは彼の意図によるものなのか否か。しかしそれでも、僕の期待とは裏腹に(?!)全体的には思ったよりオーソドックスな演奏であったように思う。ただ1箇所、第2楽章練習番号Eのあたり、一歩テンポを落とした彼の音楽加減が大変心地よく感じられた。ここだけはオーケストラのバランスも見事に取れていたと思う。それもオケの自主性の賜物か、はたまた曲の素晴らしさ故か。分からない。もう一つだけ付け加えておくと、第2楽章のテンポは遅め、「嵐」(第4楽章)は異様に速く感じた。その「嵐」、音楽自体は速いだけとはいえ、NYPのバックボーン、コントラバス・セクションのこのような箇所の張り切りようは見事だ。久し振りにセクションの一体感が感じられ、Cマシーンが輝いて見えた。賞賛を送りたい。来年はゲルちゃん「オケコン」でもやらんかな。以上。




2、「宇宙人ブーレーズ」・・・ピエール・ブーレーズ指揮ロンドン交響楽団、
ピアノ;ダニエル・バレンボイム、その他 
(カーネギーホール;3月12日午後2時、13日午後8時)

  始めに言っておくと、僕はブーレーズは嫌いではない。彼の何が好きかというと、やはりその独特かつ明晰な音処理と研ぎ澄まされた超緻密なバランス感覚であろう。また彼の知的能力は一般地球人のそれとは比較にならないと言って良い。だがしかし、そんな彼の才能がかえって裏目に出るケースがある。今回のマーラーの6番(12日)などその典型だ。名盤と謳われるウィーン・フィルとの1枚盤録音よりも更に若干速くまくし立てるような演奏に、色気や精神性などはやはり無縁だったように感じられる。緩徐楽章は、改めてその美しさを示されたようないわば「教科書的」演奏であったが、全体的に盛り上がりに欠ける感はどうしても否めない。諸君、ブーレーズはCDを聴け。楽譜を忠実音にするという面に於いて彼以上に適したコンダクターは地球上には数える程も居ない。ちなみにマラ6の実演の醍醐味には、何と言っても美的感覚溢れる緩徐楽章(通常第3楽章)の造形そして終楽章に於ける2度のハンマーの打撃が挙げられる。まぁVPOとの録音ではあまり目立たないハンマー音が、今回の実演で大きく際立ったのは(当然とはいえ)嬉しかったが。他は前述の通り。いずれにせよ日曜日にマチネーで聴くには余りに長くて重過ぎるプログラム(前プロがベルクの「3つの管弦楽のための小品」、若手女流作曲家ノイヴィルトの新曲「クリナメン/ノドゥス」のアメリカ初演)であった。ハァ・・・。
  ピエール・ブーレーズは今月26日に75回目の誕生日を迎える。最終日の13日にオーケストラが彼のためにハッピー・バースデイを演奏したのは、いかにもアメリカ的(オケはブリティッシュだが)な微笑ましい一幕であった。ブーレーズは今回のNYに於けるLSO全4公演それぞれに生前の作曲の作品を取り上げるといったプログラムを用意してきたが、この最終日も「現代音楽」が2曲演奏された。1曲はイギリスの作曲家ジョージ・ベンジャミンが今年書き下ろしたばかりの新曲「パリンプセスト」、そしてもう一つはブーレーズ自身が7年前に作曲し、同年に手兵アンサンブル・アンンテルコンテンポランとカーネギー初演も果たしている「オリギネル」(フルート・ソロはLSO首席のポール・エドムンド‐デヴィース)である。これらはいい意味でも悪い意味でも、分かり易く言えばまるで生CDを聴かされているような演奏であった。LSOのテクニックの幅広さには痛く感心(感動ではないが)した次第である。しかしこれはまだこの最終日公演の全くの前座と言ってしまって良い。この後の、大胆にもバレンボイムをピアニストに迎えてのシェーンベルクのコンチェルト、そしてメインのペトリューシュカ(1911年版)が
頗る良かったからだ。
  シェーンベルクのピアノ協奏曲は、実演としてはかなりの高水準(敢えて欲を言えば、もう少し金管の縦が揃えば申し分なかったのだが)の、言わば模範的演奏であった。バレンボイムのピアノも彼らしく重厚かつ音楽的に洗練されたもので、彼らの息の合った音楽作りは正しく名人芸の域と言って良かろう。
  ペトリューシュカの11年原典版と言えばその4管編成のダイナミックなオーケストレーションが見所の一つであるが、後の合理的に整合された2管編成の47年版と比べ野性的な奔放さがある分、バランスの取り方が難しい箇所がままある。恐らく
ストラヴィンスキーの3大バレエの中でも最も音楽的に難しい曲・エディションではないだろうか。そんな状況下、曲中で見せられたブーレーズの冷静沈着な解釈、冷静なバランス処理、そして意外なほど歯切れ良いリズム感に、つくづく「上手いな〜」と唸らせられた。このような演奏であったら、ブーレーズのために会場へ足を運ぶ価値が充分にあると言えよう。
  ところでオケに関しては、僕はこのオケを過去にNYのエイブリー・フィッシャー・ホール(音響最悪)や本拠地のバービカン・センター(音響超最悪)で聴いた事があるが、今回の感想も、
現在のこのオケに名門としての及第点を果たしてあげられるかどうか、疑問が残る。確かに安定したピッチの上に成り立つ合奏能力全般の上手さはあるが、「音色」と言う意味では先のシカゴ響すらの冴えも無いし、「音量」などはさしずめ腹八分目といったところか。ロンドンの楽団全般に当てはまる事だが、いつも金管にはガッカリさせられる。ペトリューシュカの例のラッパのソロもホルンの幾つかのショート・パッセージもあるいはチューバ独奏にしても、いかんせん納得いかない。これは過密なリハーサル・スケジュールやツアーといったコンディションの問題等あろうが、幾分の技術的・音楽的向上を今後に期待したい。




1.「メジャーの貫禄」・・・ダニエル・バレンボイム指揮シカゴ交響楽団 
(カーネギーホール;2000年3月5日午後2時、6日午後8時)

  久し振りに聴くシカゴ響(以下CSO)である。前回のカーネギー・ホール公演は確か僕がNYへ来てすぐ、大学1年の秋だったのでそれ以来2年半振りとなる。曲目は初日はバレンボイムの弾き振りでモーツァルトの25番の協奏曲とブルックナーの交響曲第4番、2日目はエリオット・カーターのオペラ"What Next?"のNY初演及びファリャの「三角帽子」。そして最後3日目を飾ったのはブーレーズの「ノタシオン」の新作群とマーラーの交響曲第5番だ。
  全体的に、CSOとはこんなに色の出るそして鳴らせ得るオケだったのか、という印象だ。2年前のカーネギーのシーズン・オープニング公演でのチャイコフスキーの4・5番といった類のプロでは聴けなかった、遥かにオケの機能や特性を活かしている今回のプログラミングと言えよう(お断りを入れておくと、今日もシカゴのブラスは健在だ。従ってその時のチャイコフスキー・プロはこれを満喫するに充分たる演奏であったと思う)。2日目のファリャはちと金管が喧し過ぎの感はもちろん無きにしも非ず。だがアンコールの管楽アンサンブル(エリントンと思われる。最近プロデュースしたジャズ・アルバムに含まれているものと察するが、残念ながら筆者は未だ未確認)で見させられた
オケの自主性やバランス感覚などは絶妙であった。
  特に注目すべき、最後の「マラ5」に関しては厳しく言えば合格点ギリギリか。随所で唸らせんばかりの旨さを聴かせてくれた中、同時にオケの荒さが浮き彫りにもなった。冒頭から曲尾まで、緊張感の持続は実に見事なものであったし、オケも非常によくシェフ・バレンボイムの棒に反応していた。ハーセスのソロ・ファンファーレは貫禄を感じさせる非常に安定したものであったが、往年のパワーや惚れ惚れするほどのテクニックはいまひとつ伝わってこない。まぁこれほど安心して聴けるラッパというのもそうそう存在しないはずのは確かだが。曲が終わって、誰よりも一段と大きく浴びせられる歓声の嵐は、NYの聴衆が何に納得を覚えたのかを窺える。クレベンジャーのオブリガートやその他のソロにも同様の事が当てはまるだろう。旨いといえば、もう職人的に最高に旨い。しかし悲しいかな、誰一人として
それが彼らの100%だとは信じたくないのである。今日では、CSOのカーネギー公演も所詮年一のイベントに過ぎないのか。
  筆者はこのマラ5の演奏、平土間席最前列という劣悪な音空間で聴くことを敢えて選んだ。以前同様の曲をホールは違えどほぼ同じ環境で小澤/ボストン響、シャイー/コンセルトヘボウ管等で聴いた経験があるので、一種の聞き比べという意味を込めて、である。このうち、オケの全体的なまとまりや合奏能力ではシャイー/RCOが一歩リード、音楽の迫力で言えばやはり今回のCSOだろう。過去のCSOで、あれほど弦のピツィカートが旨くはまるオケを聴いた記憶がないので今回驚かされたが、パート間のアンサンブルはある程度当たり外れがあるような予感を与えられてしまった。それだけ本番中プッシュが利いている楽団と言えばそれまでだが、やはり「アメリカのオケ」という事実は拭えない。弦の音質はとにかく金属的で、内声のふくよかさなど欧州の名門のそれと比べてかなり物足りない。地元の某フィルハーモニックよりはいくらか上をいっている、といった程度か。まあしかし
これだけのレベルのマラ5は日本ではまず聴けないので、今回はまたまた幸せな気分を味合わせてもらった。
  最前列で聴いたことの目的はこれだけではない。弦楽器の配置変えによる効果というのを知りたかったのだ。ちなみにバレンボイム/CSOがこのいわゆるヨーロッパ型配置(左側に第一ヴァイオリン、その奥に低弦、右側手前から第二ヴァイオリン、ヴィオラ)を採用したのはまだ最近になってからだ。今回の公演では、
マーラーにおいてヴァイオリンの対抗配置は極めて有意義である事が確信できたように思う。この件についてはまたいつか。






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