やすとねんぴょう


ここでは僕のこれまでの生い立ちを年表形式でお届けしたいと思います。
おおまかな最大公約数的プロフィですが、ご了承を。




時期 年齢 できごと
1978年(昭和53年)
4月6日
母の実家がある愛知県尾西市の市民病院にて生誕。詳しくは「木村康人をもっと知りたい方へ」参照。父親の「健康な人」に育って欲しいという粋な計らい(?)で康人(やすと)と命名。
1979年(昭和54年)
7月28日
父方の祖父が死去。僕は兄妹の中で唯一おじいちゃんと会っている。弟が生まれるのはこの秋。
1980年(昭和55年)
5月31日
現在の実家へ引越し。父がいよいよマイホーム・パパになる。
1982年(昭和57年)
4月
お隣りの「かわしま保育園」入園も、しばらくして中退。妹が生まれる。
1983年(昭和58年)
4月
保育園に弟と一緒に再入園。ピアノをぼちぼち始める。
1984年(昭和59年)
10月
川島鼓笛隊を指揮。生まれて初めて人前で指揮をした時である。
1985年(昭和60年)
4月
三重県四日市市立川島小学校に入学。以後卒業まで毎学期学級委員及び学級代表を務める。ヴァイオリンもこの頃始める
1986年(昭和61年)
この頃からパソコンに興味を持ち出す。家のMSX(8M bit)を使ってベーシックによるプログラムを作成し始める。ファミコンはまだ持っていなかった。
同年秋 読書の秋。色々な偉人の伝記を読みあさる。最も共感したのはエジソンとベートーヴェン。
1987年(昭和62年)
ベートーヴェンに真剣に感銘を受ける。とりあえず頑張ってピアノに向かっていた。
同年12月29日 曾祖母が死去。覚えている最初の身内の死。父が初めて見せた涙が今でも印象に残っている。
1989年(平成元年)
初頭
10 天皇陛下崩御。丁度大葬の時期に父の仕事の都合で家族でパリへ。これが人生を変えたかも。初の海外&飛行機。言葉は何も通じないパリっ子たちと一緒にブローニュの森の公園で遊んだのが一番の思い出。
同年10月 11 児童会副会長に当選。だるまに目を書く(嘘)。この頃までは結構まじめな子だった。独学で作曲を始める。
1990年(平成2年)
4月6日
12 小学校6年に進級。担任のM先生との出会い。他人にちょっと変わった目で見られてた僕を大事にしてくれた初めての先生。
同年4月29日 12 3歳のいとこが心臓の病気でその短い一生を終える。非常にショッキングな出来事でした。
同年5月 12 児童会会長選挙に圧勝。運動会の行進曲をドラクエの「ロトのマーチ」ロング・バージョンにし、公約であった遠足のおやつを完全自由化。その他校則幾つか緩和。しかし同時に保守派教師層の反感をかうことに。
同年10月17日 12 秋に行われた三重県三泗地区陸上記録会に於いて走り幅跳びと400mリレーで二冠達成。校内で知らない人間はいない存在に(自画自賛)。
1991年(平成3年)
2月
12 鹿児島のラ・サール中学受験。結果「イロハ・ラサール」。市内の暁中学校教頭(現校長)が実家をアポなし訪問。3年間の特別奨学生をオファーされるも、蹴って名古屋市の東海中学校への進学を決める。
同年4月下旬 13 陸上部とオーケストラ部に入部。掛け持ちは実は内緒であった。こうして受験でやめていたヴァイオリンを再び始める。
1992年(平成4年)
14 オケ部との掛け持ちがばれ陸上部自主退部。しかし8月のある日照雨の日、急きょリレーの第一走者として瑞穂競技場に召集される。この時トラックで不思議な幻想を覚えた。案の定、帰宅して母から小6時の担任M先生の早過ぎる死を聞く。享年31歳。僕の人生が動き出す。初めてのオーケストラ作品を作曲。
1993年(平成5年)
3月下旬
14 東海学園交響楽団オーストリア演奏旅行に第一ヴァイオリン奏者として参加。ウィーン・フィルの本拠地ムジーク・フェライン大ホール等で演奏。面白そうだったのでヴィオラも始める。
同年秋口 15 この頃から留学を考え出す。親は余り相手にしてくれなかった。説得工作にあらゆる手段を行使。
1994年(平成6年)春 16 東海高等学校入学。中学校3年間皆勤だった僕もちょくちょく欠席が目立ち始める。この年の冬、親を何とか説得し留学機関の面接へ連れて行く。
1995年(平成7年)
6月上旬
17 高校留学決定。修学旅行辞退。代わりにスイスへ留学直前だったYさんと色々遊ぶ。
同年7月 17 渡米。カリフォルニア州LA郊外のウィディア(ウィッティア)大学にて3週間の研修。この間にようやくホストファミリーが決定。ペンシルヴェニア州へ。
同年 17 これまでの人生で一番波乱万丈の時間を過ごした年。高校は公立で、全校生徒2200人中日本人は僕一人。なんとか音楽で自己アピール。初めて音楽で他人に認められる。音楽で生きていきたいと真剣に考え出す。次年度の芸術高校への編入を希望するが、親は反対。しかしこれも力ずくで説得。
1996年(平成8年)
2月3日
17 父方の祖母死去。葬儀には残念ながら駆けつけられなかった。
同年2月12日〜18日 17 留学機関の旅行でNYへ。頻繁に来ていた街だが、懐かしい友人達や世界中からの留学生らと過ごした1週間は格別だった。
同年春 17 音楽活動が一層忙しくなる。弦楽四重奏で地元のテレビに出演。高校の吹奏楽団がスコットランド&イングランド演奏旅行。このためにバンドで慣れないホルンを吹いていた僕だったが、オール・ステート・オーケストラの代表になる可能性があったために結局旅行はキャンセル。でもオケの方で州内の小旅行を楽しめたので良かった。
同年春 17 ボストンのワルナット・ヒル・スクールとミシガン州のインターロックン高校の作曲科を受験。両校とも合格するが、色々考えてボストンという土地を選ぶ。
同年4月、5月 18 ソリストとしてモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番をリバティー・ハイスクール・オーケストラと共演。同時に自作曲「Aries」も指揮。計2公演を行う。
同年9月9日 18 ワルナット・ヒル・スクール音楽科作曲専攻科に編入学。この年は一年で卒業するために頑張って単位取得。ついでに自動車免許も取得。
1997年(平成9年)
3月末
18 スクール・トリップでヨーロッパへ。10日間かけてイギリス、フランス、イタリアを周遊。最高の旅だった。この時訪ねたアッシジのフランチェスコ大聖堂が、この直後の大地震で壊滅的打撃を受けることになるとは・・・。カプリ島良かった。ソレントで見たあの青空と夕日は一生の思い出。
アメリカに帰ってきてからは、マーサス・ヴィニヤード島にある同級生の友人宅で数日間お世話になる。
同年初夏 19 人生3つ目の高校ワルナット・ヒル・スクール無事卒業。大学受験では、ニューイングランド音楽院、サンフランシスコ音楽院、クリーブランド音楽院、シンシナティ大学、マンハッタン音楽院そしてマネス音楽大学の各作曲科に合格。迷った末、学部に指揮科があるマンハッタンのマネス音大へ進学する。
同年11月25日〜28日 19 大学の友人・先輩達とナイアガラ、トロントへ旅行。
1998年(平成10年)
1月20日
19 合唱のクラスのために夕方2時間弱家を開けた際、泥棒に入られる。パスポートやコンサートのチケットを始め、損害は甚だ大きかった。時期を同じくして同様の事件が同じビル内にて多数発生。まだ引っ越して3ヶ月しか経ってなかったのに・・・。悪夢。ちなみに今現在も同じ所に住んでいる。
同年5月15日〜26日 20 同じ大学の院生である太田さんと12日間大旅行を決行。グランドキャニオンを始めとする国立公園群、デンバー、ラスベガス、シカゴにも立ち寄った全陸路の旅。総走行距離約1万km。
1999年(平成11年)
1月15日
20 ハッピーマンデー法施行前最後の成人式。四日市市の成人式は四日市ドームで立食パーティー形式で賑やかに行われた。堅苦しさは皆無。夜は初めて小学生時代の友人達と飲む。日本帰って良かった。
同年2月15日〜21日 20 指揮者のキンボー・イシイ・エトウ、小出雄聖の両氏とサイモン・ラトル/ウィーン・フィルのリハーサル見学のためウィーンへ。本当に素晴らしかった。良き思い出。
同年3月6日〜9日 20 ガールフレンドとフロリダのディズニーワールドへ。ディズニーは良い、夢がそこにあって。
同年4月6日 21 念願の21歳の誕生日を迎える。ようやく合法的にアメリカで飲めることに。さらばfake ID(笑)。
3度目の正直でマネス音大の指揮科に合格。3年連続補欠の危機は免れる。同時にお世話になってきた指揮のチャリー先生が悲しきかな惜しまれつつご引退。
同年初夏 21 テレビ朝日の深夜番組「未来者」の取材を受ける。同年7月13日(火)に30分のドキュメンタリーが放送される。9月28日(火)にはシリーズ総集編放送。
2000年(平成12年)
元旦
21 Taeチャンとお姉チャンと共にタイムズ・スクエアでの感動的なカウントダウンの末、ミレニアムを迎える。場所確保のため大晦日の昼間から13時間くらい立ちっぱで待った。その根性が認められ、フジテレビのクルーに仲良くしてもらう。さらにNY1の独占TVインタビューを受ける。
同年3月初旬 21 Y2K問題もほぼ杞憂に終わる。ホームページ開設。
同年3月7日〜12日 21 マイレージ使って旅行、今回はサンフランシスコへ。ヨセミテやモントレー半島方面にも足を伸ばしました。海沿いのドライブはとっても気持ちよかったです。
同年4月27日〜
5月1日
22 フロリダ州マイアミで行われたニューワールド交響楽団の指揮ワークショップに参加。全米中、世界中から集った指揮者らと時間を共にする。このとき指揮したモーツァルト及びコープランドがマイケル・ティルソン・トーマスら講師陣の絶賛を博す。
同年6月26日〜
8月17日
22 ミレニアム世界一周旅行ついに実現。梅雨真っ只中の日本を出発し、勢いで4大陸9カ国を廻る。7週間の総移動距離約5万km、総飛行時間は60時間以上。この一大旅行記はこちら。この間2つの音楽祭に指揮で参加、充実の2000年夏。我ながら良い経験をした、ウン。
2001年5月23日 23 マネス卒業。しかしジュリアード、マンハッタン音大、カーティス音楽院の入試で惜敗。マネスの院進学は学校側との確執で辞退。マスター浪人決定。辛酸を舐めつつもゼロから自らを見つめ直すことにする。
同年9月11日 23 米国中枢同時多発テロ事件。日本での進学と完全帰国を決意。
2002年4月4日 23 実技との決別。音楽学・音楽社会学を修めるため、国際基督教大学大学院比較文化研究科に進学。現在に至る。






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