9.11.2001
史上最悪のテロ事件
そこで僕が見たもの



プロローグ
9月10日

心配される接近中の台風。
豪雨の中、飛行機は飛び立った。
深い深い雲の中を進む。
今まで見たこともない分厚い雲の中。
揺れる機内。
窓を叩きつける雨だれ。
上昇が終わって日が指しても、そこは雲の海が。
自然の驚異を感じる。
客室乗務員の話では、横風が強くない限り、ある程度の大雨なら飛行機は飛べるそうだ。
アラスカ上空で、僕は窓の外に今年3度目のオーロラを見た。

NYの天気は晴れ。
空気は済んでいて、摩天楼も綺麗に見える。
エンパイアステートビルやワールドトレードセンターを横目に、僕は自宅に着いた。

その夕方は、雷を伴った強い雨が降ったり止んだり。
空が青くとも、町中に轟く雷鳴。
文字通り青天の霹靂、不気味な天気であった。
時差調整のために、この日は早めに床に就いた。
   




9月11日

6時半ごろ目が覚めた。
日課のクラシック専用FMを付ける。
眩しい朝日に心地よい。
しばらくしてTVを付けてみる。
ケーブルに加入していない僕は、実はほとんどのチャンネルを見ることができないのだが…(涙)。
マンハッタンは高層建築密集地のため、一般のTV用アンテナは用を成さない。
そんなうちのテレビジョン受像機は、悲しいかな、もっぱらVHS用である。
ただしそんなTVがなぜか日によって映ったりもするから不思議。
摩訶不思議、それがニューヨーク・シティー。
「今日もだめだったか…」
テレビを消す。
クラシック局はイッポリトフ・イワノフの「コーカサスの風景」なんか(失敬!)やっているからそれも消す。
この日は10時過ぎから出かける予定だったので、しばらくの時間ゆっくりしていた。
身支度を終えて、出かける間際になんとなくまたラジオをON。
そうしたらなんと、信じられないニュース速報が…

「飛行機がツインタワーに突っ込む?崩壊??なんの話だ?!?」
しかし何度聞いても"Collapsed"と言っている。
しつこいくらい言っている。
『自分の耳を疑う』というのは、こういう時のための言葉なのだろう。
本当か?!確かめたい。
しかし現在、なんと電話線の不具合で電話ファックスはおろかインターネットも使えずおまけに携帯もバッテリーが寿命で使えないという僕にとって(これこそ『泣きっ面に蜂』というのだろう)、手段は限られていた。
僕は、以前屋上からへツインタワーの上層部がちょこんと見えたのを思い出し、早速エレベーターに乗り込み'R'を押す。

15階建てのアパートの屋上。
何人か先客がいた。
彼らの視線の先はダウンタウン。
そして……なんと南のかなたに周囲の摩天楼を見下ろす程の高い煙が…!
そしてワールドトレードセンターの四角い双頭はなぜか見えない!!
「これはいったい何事だ?!」
僕は階下に降りた。

途中立ち寄った銀行は、平日だというのになぜか窓口はクローズ、またATMには多くの人が列を作っていた。
「これはやはりただごとじゃないぞ。」
中に待機している行員達が、通常なら金融情報を流しているはずのテレビをもくもくと見つめている。
閉鎖されたガラス戸ごしに僕は覗いてみた。
「…!!!ξ★×▽и!」
驚くべきことに、頭からみるみる崩れ落ちるツインタワーの姿が映し出されているではないか!!
『自分の目を疑う』とは、真にこういうことを指すのだろう。
僕はその場に何分か立ち尽くしてしまった。
ただ、カラス越しのため音声は全く聞こえないし、遠目で見るブラウン管なのではっきりとその事情が分からない。
とりあえず成績証明書を発行してもらうという当初からの予定を果たすため、その足で学校に向かう。

案の定休校だった。
オフィスもやっているのかやっていないか分からない状況だ。
久し振りに再会した友人達に聞いた。
サブウェイは全面通行止め、市バスは飽和状態、そして全米の空港が閉鎖されたらしい。
朝早くニュージャージーからやってきた友人は、あらゆるトンネルや橋が閉鎖されたため帰れないそうだ。
テロなのか?!こりゃ大変だ。
これからの用事はどうしたもんか。
しかたない…時間もあるし天気もいいし、セントラルパークを通って徒歩で行こう。

パーク内は、パークドライブ(車両通行用の道路)が閉鎖されていたことを除いて概ねいつもどおり。
散歩を楽しむ人、読書する人、幼子やペットを連れているご夫人、日光浴をする人etc。
ただ、異様な数のスーツ姿のサラリーマンやOLっぽい人々がパークを北上している。
彼らの多くは携帯電話で街の状況等を話している様子だった。
やはり会社が閉まるほどの一大事なのだろうか。

公園から街に出ると、アッパーウエストサイドでは見られなかった光景が、一気に目の前に広がった。
道路は大渋滞、市バスは超満員、歩道は歩行者で溢れかえっている。
若いアフリカ系アメリカ人が持って歩くラジカセからは、いつものラップやレゲエではなくニュース速報が聞こえてくる。
遅くなる前に日本に電話を入れようと思うが、公衆電話は長蛇の列。
また国際電話用のフォーンカードを売っている店を探すも、辺りは軒並み閉店だ。
従って携帯のバッテリーも買えない。
ミッドタウンの閉店率は、アップタウンのそれより格段に高い気がする。
めげずにカーネギーホールへ音楽会のチケットを取りに行く僕。
ところが、例に漏れずここもクローズ。
諦めて次は隣りのカーネギータワーにオフィスを構える旅行店へ。
ここでは厳戒態勢のため、従業員がロビーまで降りてきて客の顔を確認してからオフィスへ連れて行く、という形をとっていた。
週末や祭日のマンハッタンのオフィスでは当たり前の形式だが、やはり異様なのに変わりはない。
来週必要な航空券の予約に訪れたのだが、そこでは各航空会社・空港の混乱振りについて教えてもらった。
ほとんどの航空会社がオフィスを閉じていて、予約は取れるものの発券については最低2、3日は様子を見ないといけないとのこと。
それ以上は分からなかった。
交通機能の麻痺は、どのくらい続くのだろう。

そのすぐ近くにある楽譜屋へも寄った。
客は僕を含めてわずか2名。
周りの店舗がこの状況でも開店しているのには驚いた。
ところで、NYでは「明日」の新聞が読めるというのがいとをかし。
と言っても日本の朝日や読売、日経新聞のことだが。
日本のプロ野球の結果が気になったし、閉店は覚悟しつつも紀伊国屋を覗くことにする。

ロックフェラーセンターは警官で完全に封鎖されており、本屋も閉まっていた。
ロックフェラーセンターもNYのシンボル的コンプレックスなので、そのすぐ側のお店の閉店は当然と言えば当然か。
ここにきて真剣に大規模テロリズムを実感した。
ということはやはり旭屋も…
閉店だった。
OCS書店も…
閉店。
そしてメト・ライフ・ビル、グラセン(グランドセントラル駅)も全面立ち入り禁止。
「マジで?!ということは…。」
悪い予感がした。
グラセンすぐ北にある高層ビルも全面閉鎖。
「今日歯医者の予約があったのに…。」
長きに渡って装用してきた矯正機がようやく取れると、心待ちにしていた日だったというのに…。

仕方がない。ここまで来たんだ。
行ける場所まで行こう。
行って真実を確かめよう。
思えば44人の犠牲者を出した先日の歌舞伎町の火事のときも僕はたまたま前日にその雑居ビルの前を通っていたし、三重県の実家に帰ってきた直後には同じ団地で火事心中があった。
そして再渡米翌日のこれ、だ。
僕はいったいなんなのだ。
呪われてでもいるのだろうか。
街で聞いたが大リーグも中止になる見通しだそうじゃないか!
こっちの予定が何から何までぐちゃぐちゃだ。
今日も暇になっちゃったし家に帰っても電話もテレビも無いし、今日は歩くぞ!

途中日本の報道陣の人達を見かけた。
今日の事件は日本でも大きく報道されているに違いない。
何とか日本に連絡を取れないだろうか。
しかし恐らくこの分ではインターネットカフェも閉まっている可能性は極めて高いし、
とにかく今日は事態を確かめに行こう。
百聞は一見に如かず。
僕にはどうしても気になった場所があった。
ワールドトレードセンターの姿が確認でき、且つ危険でないであろう僕に馴染みのある場所だ。
そこまで行ってみよう。

貴重な開店しているお店を見つけたのでそこでグリルチキン・サンドウィッチを買い、マジソン・スクエアでちょっと小休憩。
不思議と周りは冷静な気がする。
公園内はセントラルパークと同様、多少の緊張感はあるもののいつもと変わらない様子だ。
僕は再び歩き出し、ドイツ語の講義に通っていた校舎まで歩いた。
その近くの6番街の角で、僕はよく信号を待ちながらダウンタウンの夜景を眺めていたものだ。
6番街に着いた。
「・・・。」
無い。
ビルが2本とも全く無い。
全く視界から消えている。
ビルが崩壊したと聞いたから勿論ある程度諦めていたが、下層部くらい残っているのではないか、近くまで行けばそれが見えるのではないか、といった期待を少なからず持っていた僕だったが、裏切られた。
愕然とした。
煙が風で流されても下層部は全く見える気配がない。
もっと近づかなきゃいけないのだろうか。
僕はひたすら歩いた。
ひたすら南へと。
あの見慣れたツインタワーを見たい、その一心だった。

家からトータルで10km、いや、軽く12kmは歩いただろうか。
キャナル・ストリートでは多くの人々がビルの方向を見つめていた。
ものすごい量の煙が確認できた。
ここで警察のバリケードが張られていて多くの人が足止めされていたのだが、南の方にもまだ多くの人が路上にいる。
どうやら内緒でもっと近くまで行けるらしい。
たまたま合流したチャイナタウンの住民たちと一緒に、近くの駐車場を経由してさらに南へと歩いた。

ワース・ストリートが最南端だった。
ウエスト・ブロードウェイと交わる場所に僕はいた。
ここはワールドトレードセンターから約800m。
多分まだ安全とは言えないであろうこの場所に、多くのニューヨーカーや報道陣が群れをなしていた。
ツインタワーから逃げてきたという男性に色々話を聞いた。
燃えかけた書類のような物も見せてもらった。
あえてもう書かないが、とにかく凄まじい惨事だったというのが伝わってくる。
彼もまたその他の人々と同様、心配そうに煙の方を見つめている。
とにかく煙が凄い。
これでもかというほど大量の煙が青空に湧きあがっている。
全く尽きることなど無いかのように。
煙に隠れて分からなかったのかもしれない、しかしタワーの根元は、やはり確認できなかった。
恐らく完全に、消滅したのだ…。

1時間か2時間か分からない。
僕はその場に立ち尽くした。
信じられなかった。
ニューヨーク、いやアメリカの摩天楼のシンボルが、もう存在しないのだ。
今回のテロをまるで映画のようだと例える人がいるが、はっきり言ってその通りかもしれない。
昨日見たはずの巨大なビルが、2本ともその姿を消してしまったのだから…。
そこからワールド・トレード・センターの別のビルが赤々と燃えているのも確認できた。
消火活動が続いているが、炎は一向に衰えそうにない。

現場では多くの情報が錯綜していた。
僕はようやくこの場で、ワシントンDCとペンシルヴェニアでも同様のテロが起きたこと、全米中の飛行機が緊急着陸をし空港が閉鎖されたことを知った。
未だに行方不明の飛行機があるという未確認情報まであった。
「僕は、とんでもない所に来てしまった…。」

現場から逃げてきたという赤ん坊を連れた女性がNBC局のインタビューを受けていた。
「命辛々」というのは、不躾だがこういう人のための表現に違いない。
僕はその様子を見守っていた。

すると、その時だった!!

大量の煙のすぐ手前の超高層ビル、その窓という窓がピカッと光った。
そしてその直後、ビルは轟音と共に崩れ落ちた。
あたかもダイナマイトによるビル破壊のように…。
人々は一目散に逃げ出した。
僕も勿論その一人だ。
人込みに押されカメラに収めることはできなかったが、何というものを見てしまったのか…。
まだ事件の余波は続いている。
それを身を持って実感してしまったのであった。

キャナル・ストリートに着いたら、さっきの4倍くらいの数の装甲車が道を埋めていた。
そこから更に歩いて、僕は14丁目と6番街の角まで辿り着いた。
足はくたくただったが、幸いにも市バスが走っており、僕はそれに乗った。
料金は無料だった。
MTA(ニューヨーク市交通局)の良心的な配慮だろう。
家路につきながら、僕は震えていたような気がする。
目を閉じると、今でもあの光景が浮かんでくる。
あの47階建てのビル崩壊は僕の脳裏に焼き付いて、消えることは一生ないだろう。




9月11日

 公衆電話からヴェライゾン(ローカル電話会社)に電話したら、今日行われるはずだった電話線の修復工事は明日に延期になるという。
この事態だ、仕方がない。
家族が心配しているだろうし、友人に電話を借りよう。
なるべく最寄の思い当たる知人の何人か電話したが、混線もありなかなか繋がらなかった。
結局知人のヴァイオリニストS氏宅にお邪魔することになったのだが、彼の家のケーブルテレビで見るその日のニュースに、僕は絶句した。
「こんなことになっていたのか…」
愚かにも野次馬などに行った自分を責めたくなる光景がそこにあった。
誰もが目にした例の映像だ。
現場にしかも徒歩で行くなんて、愚かなことをしたもんだと痛切に感じた。
本当に痛い偶然が災いした。
家の電話線のトラブル、バッテリー寿命の携帯電話、ケーブル未加入のテレビ・・・エトセトラ。
しかし、昨日NYに戻ってくることができたのは、不幸中の幸いと言ったところか。
心配してくださった多くの方々には、本当に申し訳ないと思っている。
この場を借りて、深くお詫びと反省をしたい。



プレ・エピローグ
2002年1月23日

僕は、かくNYを去った。
それだけ衝撃的で歴史的な大惨事だった。
春からは東京で新たなスタートを切ることになる。
しかし、依然としてビンラディンとオマル両氏の消息はつかめていない。
ラディン病死説もここにきて信憑性を増してきている。
同時多発テロ事件の収拾がつくであろう頃にエピローグを記そうかと思っていたが、時間ばかりが悪戯に経ってしまった。
僕の友人にも、現場近くに住んでいた者や、たまたま現場に居合わせた者も複数いる。
彼ら彼女らから生々しい話をいくつも聞いたが、それはここでは書かない、というか、書けない。
自らの愚かな行動とその当時の回想については順を追って書くことにしたが、この事件の本質的な悲惨さは、この場所ではとてもじゃないが書き尽くせないからだ。
それにこんなページを書いておいてなんだが誤解を避けるために言うと、あの日のことをあたかも武勇伝の如く述べることは、僕には不可能である。
どうしてもより詳しく知りたい方や写真を見たい方は、リアルの僕に直接お尋ねいただきたいと思う。

今回の同時多発テロは、真に僕の心をぐちゃぐちゃにした。
絶対の価値観や普遍の心理など無いというのを身に染みて感じた。
同時に、僕の中にあった大きな何か堅いものまで、瞬時として奪われたように思った。
それくらいショックだったし、それくらい僕はあのツインタワーを愛していた。
尊厳あるスカイスクレーパーの街並みに聳え立つ双頭のビル、20世紀のモダニズムを結集した双璧、それらを始めとするマンハッタンの摩天楼…
人間と時代が相まって織り成す一つの社会かのような、独特の風景がそこにはあった。
しかしマンハッタンを見る僕の目も、これからはおのずと異なってくるだろう。
「NYは二度と元のNYには戻らない。同じマンハッタンはもう帰ってこない。」
「September Eleventh - この日は私達が一生忘れることのない、いや、歴史からも忘れられることのない悲劇の一日になるんだ。」
これらは、当日のグラウンドゼロで僕が聞いた印象的な言葉だ。
あと、当日深夜のニュースで、マスメディアがこの事件をどうやって子供達に伝えるか、を精神カウンセラーと真剣に議論していたのも印象的だった。
過熱報道をこぞって繰り返すどこかの国と違い、冷静沈着で大人だと僕は感じた。

米国の対テロ戦争、いわゆる対テロ戦争に関しては、僕はやむを得ないと考えている。
米国は、朝日や毎日といった新聞が伝えているほど短気ではなかった。
米国は、非常に慎重にかつ着実に、テロ非難の国際世論をまず固めた。
泥沼となったベトナムとの違いは、ここにある。
あの時は背後のソビエト連邦が大きな存在であったが、今回、タリバン政権のアフガニスタンをバックアップする国家は皆無であった。
これは大きな違いだ。

ラディン及びアルカイダが関与したとされる確固たる証拠を提示していない等と言うメディアもあった。
しかし忘れてはいけない。
テロの戦争で、最も重大なカギを握るのはやはりインフォーメーションだろう。
従って、米国側が掴んでいる証拠の類の一般提示は、言わば国家機密の開示に繋がり、今後の戦況また国防を考慮する意味で米国にとって大きな損失となり得てしまう。
宣戦布告も無い戦争的な大攻撃の後、こちらの貴重な情報ソースを敵に悟られる危険性のある行為は、二次的被害を思えばスマートな選択とは言えないはずだ。
国際信用上、各同盟国家のトップレベルの人間が納得するだけの証拠があれば、十分なのではないか。
そう僕は解釈している。
しかし一方で、後に入手し公開に到る最初のビデオテープの貧相な内容を思えば、
「現在のところ数点の状況証拠しか無いが、米国にとって余りの脅威なので正当防衛する」
これで良かったんじゃないだろうか、とも思ってしまう。

あと一つ、「正義の戦争」と銘打ったのは、確かに行き過ぎたプロパガンダかもしれない。
戦争に、正義も悪も無いからだ。
ただ、これは21世紀社会の動向を占う上で大きな意味を持つ戦争であるだろう。
つまり極端な話、「勝った方が正義」とも言える。
それは過去の幾多の戦争の歴史が証明している。
そのために米国は真剣に且つ人的被害を最小限に抑えるため、将来の正義のために英知を極め戦っている。
国務長官を中心とする米国のブレーンは、あれほどの悲劇を考えれば冷静沈着と言えるプロセスを踏んで機能したのではないだろうか。
そう僕は信じているし、信じたい。
今はただ、捕らえられたタリバン兵の処遇、そして今後の対テロ戦争の流布拡大を危惧するところだ。
とにかくアメリカ合衆国には、これを機に唯一の超大国としての自覚と信用を確立して欲しいと思う。

あと蛇足であるが、「ラディンを捕まえるな。対話が重要。」などと馬鹿を抜かしている日本人某議員らは本当に目覚めて欲しい。
つくづく思う。
さすが、過去にテロに屈した前例を持つ屈辱国家の議員だけある。(←注:僕は日本国は大好きですが、ああいう平和ぼけした人々がどうしても理解できない、という意味です。)
炎と煙の苦しみに耐えかねてタワーの100階から飛び降りた人の気持ちになって考えてみて欲しい。
彼らの遺族の前でもそんな偽善的なことを言えるのなら、そうすれば良い。
現実問題、僕らニューヨークの人間は誰でも殺される可能性があった。
貿易センターで働いていた世界各国の多くのエリートが惜しまれつつも散った。
それらの人々を救助に向かった多くの消防隊員も亡くなった。
将来ある者が無残な死を遂げ、尚且つ残された人間が更なる恐怖に慄きながらテロリストとの対話という非現実的で空虚な妄想を強いられるのは、まっぴらごめんである。
もしアフガン空爆以外に取れる手段があったのなら、教えて欲しいものだ。
勿論、20世紀のアメリカの外交政策に全く問題が無いわけでは無いだろう。
ただ、それとNYの世界貿易センターを短絡的に結びつけることは出来ないし、またアフガンを空爆したのも、アルカイダが行ったような罪の無い人々に犠牲を強いるための攻撃ではない。
個人的には、強引だがタリバンどもに爆破されたバーミヤンの仏罰に相応するものだと感じることすらある。
少なくとも今回の場合、最善の策がアルカイダを庇護していたタリバン政権下アフガンへの空爆であったのだ。


…・・・ちょこっと感情的になってしまった。
本当に言いたいのはそんなことじゃなくて、
「ジュリアーニ市長、お疲れ様!」
これである。



NYを去る前日、僕は再びグラウンドゼロを訪れた。
事件の記憶と追悼のためにと、最近になって特設展望台が公開されたのだが、僕は実はそれよりもっとビル倒壊現場に近い場所に、足を踏み入れさせてもらった。
「どうしても犠牲者の冥福を祈りたい」
無理とは思いながらそう懇願したら、警備員の一人が遺族用に設けられた見張り台に通してくれたのだ。
そして、信じられない景色が目の前に広がった。
"America under Attack."
再三再四ニュースで繰り返された言葉の意味が、一瞬にして伝わってきた気がした。
現場の外からの光景は幾度もカメラに収めてしまった愚直な僕だが、ここでは恐る恐る一枚だけ写真を撮った。
この目の前の光景は絶対に写真では伝わらない、そう知りながらも。

国連が寄贈した大きな看板があった。
世界地図を地に、事故の日付と世界各国の国旗がデザインされたものだった。
日の丸の横に、日本人のサインはまだ無かった。
「決してこの日を忘れない。」と僕は日本語でサインをした。
数多くの日本人も犠牲になっていることを、少しでも伝えたかった。



そしていつの日や、ここに本当のエピローグを書き込めるよう・・・

New York, Forever...

Yasuto Kimura



World Trade Center, NY




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