9月11日

 公衆電話からヴェライゾン(ローカル電話会社)に電話したら、今日行われるはずだった電話線の修復工事は明日に延期になるという。
この事態だ、仕方がない。
家族が心配しているだろうし、友人に電話を借りよう。
なるべく最寄の思い当たる知人の何人か電話したが、混線もありなかなか繋がらなかった。
結局知人のヴァイオリニストS氏宅にお邪魔することになったのだが、彼の家のケーブルテレビで見るその日のニュースに、僕は絶句した。
「こんなことになっていたのか…」
愚かにも野次馬などに行った自分を責めたくなる光景がそこにあった。
誰もが目にした例の映像だ。
現場にしかも徒歩で行くなんて、愚かなことをしたもんだと痛切に感じた。
本当に痛い偶然が災いした。
家の電話線のトラブル、バッテリー寿命の携帯電話、ケーブル未加入のテレビ・・・エトセトラ。
しかし、昨日NYに戻ってくることができたのは、不幸中の幸いと言ったところか。
心配してくださった多くの方々には、本当に申し訳ないと思っている。
この場を借りて、深くお詫びと反省をしたい。



pre-epilogue
2002年1月23日

僕は、かくNYを去った。
それだけ衝撃的で歴史的な大惨事だった。
春からは東京で新たなスタートを切ることになる。
しかし、依然としてビンラディンとオマル両氏の消息はつかめていない。
ラディン病死説もここにきて信憑性を増してきている。
同時多発テロ事件の収拾がつくであろう頃にエピローグを記そうかと思っていたが、時間ばかりが悪戯に経ってしまった。
僕の友人にも、現場近くに住んでいた者や、たまたま現場に居合わせた者も複数いる。
彼ら彼女らから生々しい話をいくつも聞いたが、それはここでは書かない、というか、書けない。
自らの愚かな行動とその当時の回想については順を追って書くことにしたが、この事件の本質的な悲惨さは、この場所ではとてもじゃないが書き尽くせないからだ。
それにこんなページを書いておいてなんだが誤解を避けるために言うと、あの日のことをあたかも武勇伝の如く述べることは、僕には不可能である。
どうしてもより詳しく知りたい方や写真を見たい方は、リアルの僕に直接お尋ねいただきたいと思う。

今回の同時多発テロは、真に僕の心をぐちゃぐちゃにした。
絶対の価値観や普遍の心理など無いというのを身に染みて感じた。
同時に、僕の中にあった大きな何か堅いものまで、瞬時として奪われたように思った。
それくらいショックだったし、それくらい僕はあのツインタワーを愛していた。
尊厳あるスカイスクレーパーの街並みに聳え立つ双頭のビル、20世紀のモダニズムを結集した双璧、それらを始めとするマンハッタンの摩天楼…
人間と時代が相まって織り成す一つの社会かのような、独特の風景がそこにはあった。
しかしマンハッタンを見る僕の目も、これからはおのずと異なってくるだろう。
「NYは二度と元のNYには戻らない。同じマンハッタンはもう帰ってこない。」
「September Eleventh - この日は私達が一生忘れることのない、いや、歴史からも忘れられることのない悲劇の一日になるんだ。」
これらは、当日のグラウンドゼロで僕が聞いた印象的な言葉だ。
あと、当日深夜のニュースで、マスメディアがこの事件をどうやって子供達に伝えるか、を精神カウンセラーと真剣に議論していたのも印象的だった。
過熱報道をこぞって繰り返すどこかの国と違い、冷静沈着で大人だと僕は感じた。

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