走れメロスを読んで

六年四組 木村 康人


僕は、この作品の感想文を2年前に書いて、特選になった。それで市の方へ代表で出されたのである(佳作に終わったが)。その時は、メロスのセリヌンティウスの熱い友情をくわしく書き、自ら無二の親友であるセリヌンティウスを人質に出させた時のメロスの気持ちなどを考えた。しかし、今一度読んでみると。少しそれとちがう感じ方をした。それを書こうと思う。
 まず1つ。本来の文章にあるように、メロスは単純な人間だということ。それはなぜかといえば、とてもメロスが身勝手で、一口で言えば単細胞だという理由があるからだ。メロスは、何をやらかすか分からない男だ。無鉄砲にも王の城へ飛びこんで行き、そしてつかまって、いいかげんにも親友であるセリヌンティウスを人質に出し、その間娘の結婚式をあげてやり、そしてもとの城へ向かい、
セリヌンティウスとの友情を示すという話だが、このような無鉄砲のメロスに似た人間がいたのなら、ぼくは友達になどなりたくない。なってしまっても断りたい。自分の無二の親友だからと言って、その親友の無理な願望を聞いたがために、財産はなくなる、家は失う、しまいには家族と別れなければいけなくなったというような「ムゴい話」が今の世の中いくつかある。「連帯保証人」というのになってしまった人なんかによくある話だ。このメロスの願いを聞いてしまったセリヌンティウスにも問題がある。2つ目は、メロスが無鉄砲なのに対して、セリヌンティウスがお人好しだということ。メロスの頼みに、セリヌンティウスは無言でうなずいた。無言というのがお人好しかと言えばそうではないはずだが、それだけ二人の友情が固かったということになる。しかし、セリヌンティウスは、メロスが来ないかもしれぬと疑った。そりゃ、どんな人間でも、一生に一度は人を疑ったり、ウソをついたりするだろう。セリヌンティウスでもメロスを疑ったぐらいなのだ。それくらいなら友情はまだ成り立つ。しかし、真の友、本当の友にはならないだろう。おたがいに、苦しい事は分けあおうというわけで、メロスが走る分、セリヌンティウスはしばられていた。しかし、メロスが間に合わなかったらセリヌンティウスは殺されていた。そうなっていたらメロスはどう責任をとるつもりだったのだろうか。あるいはメロスを待つ間、セリヌンティウスがそれでも友と信じるのなら、疑いなどはしなかったはずだ。おたがい真の友とは言いがたい。そして、友情にはなるといっても、それが本当の友情だろうか。先程僕は【友情はまだ成り立つ】と書いたが、それは見かけの友情でしかないものだと思う。本当の友情というのなら、自分の処刑をのばしてもらうために、どんな理由があるにしろ、無二の親友を人質にさせることなど、出来るわけがないのだ。
 このように、人質という危険な立場を親友に味あわせた勝手なメロスと、死というものととなりあわせにさせられたにも関わらず、メロスを親友とし、メロスを許した人の好すぎるセリヌンティウスの関係は、友情とは言いがたい。むしろほめるとするのなら、自分が処刑を言いわたされたとはいえ、それに意地をはり、無二の親友を人質にさせ、妹のフィアンセに無理を言って結婚式を翌日にあげさせたメロスと妹との兄弟(妹)愛をほめるべきだろう。あと無鉄砲とはいえ人間不信のディオニス王に怒りを感じ立ち向かっていったメロスの正義感をほめるべきだと思う。友情などとしてしまっても、この友情は現代では通用しない。【保証人】の例と同じなのだ。
 このような話を友情として教えられ、しかも何年か前に観劇で見せられた僕らは不幸であると思った。



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